2011年9月30日金曜日

下品な外交

人物を評価するとき、決め手になるのは品位の有無である。それを持ち合わせていない下品な相手とは、あまり深く付き合わない方がよい。これは人が生きていくために、欠かせない基本的な処世術である。同じ見方は、一国の政治においても通用する。最近の例では、管直人前首相が行った政治である。この人物の下品さよって感じさせられた不快感は、国民の脳裏に刻み込まれているが、ここでは触れないことにしよう。
 品位という見方を、さらに拡大すると国際政治すなわち外交においても通用する。好例は中国と韓国である。まず中国についていえば、この国の統治者は、国内政治に行き詰まりの気配がみえると、必ず仮想敵国を設定し、それへの憎悪をかきたてる。江沢民は「歴史認識」という奇妙な理屈を振り回して、共産主義政治の矛盾や腐敗を、大衆の注意から逸らすことに腐心した。彼のいう歴史とは、日本と中国が争った20世紀、つまり100年足らずのことで、それ以前の歴史は眼中になかった。その短期間だけを切り取って、歴史云々と騒ぎ立てるのは。まさに下品なことである。最近では胡錦濤の政治に翳りが見え始めたが、その繕いのため又もや反日キャンペーンを始めている。その内容は「日本に軍国主義が復活しつつある」というのだ。これは笑い事ではすまされない。このデッチ上げを口実にして、尖閣諸島の攻略に向かうかも知れないからだ。
 韓国の外交も下品だ。政権運営が危うくなると国民の目をそらすために、日本という仮想敵国をネタにして大衆を扇動する。前大統領の盧武鉉はそれを積極的にやった。現在の李明博大統領は知日派でもあるので、少しはましかと思ったが、やはりそうではないらしい。このところ竹島についての反日キャンペーンが激しくなったのは、従来と全く同じ構図である。下品な国に近接していて、それと付き合わなければならない日本は、本当に難儀なことだ。

2011年9月28日水曜日

上海で再び地下鉄事故発生

 盗作とコピーで急発展した中国の第二次産業も、ここにきて馬脚を現し始めた。たしかにこの十年あまりは、文房具やプラスチック製品、繊維製品などのコモディティ型製品で、世界を席巻するほどのパワーを発揮した。これらの生産は、図面と設備および単純作業に従事する低賃金労働者という3条件さえ揃えば可能になる。日本は今まで、親切にもそのうちの図面と設備の多くをこの国に提供してきた。

 しかし中国は、この程度のことで満足する国ではない。さらなる進歩と拡大を、強引に推し進めつつある。問題はその強引さの中味である。具体的に言うと、その第一は冒頭に述べたコピーと盗作。第二はソフトの省略ないし無視である。極言するとこの国には、ソフトの意義を正当に評価し理解する能力がないのではないだろうか。
 ではソフトとは何か。簡単にいうと、それには二つの意味がある。その1は、ハードとしての製品を動作させるプロセスつまりソフトウエアである。それにはアルゴリズムや制御の仕組みが必要になる。一般にこれらのソフトは、単体製品には内蔵されているので、問題が顕在化することは少ない。しかし複数の製品を組み合わせて構成するもの、すなわちシステム製品となるとそうはいかない。全体を制御する膨大なソフトが必要になる。それだけではない。そのソフトを使いこなす専門技術やメンテナンス技術も必要になる。これを習得するには綿密なカリキュラムに基づくトレーニングも欠かせない。現在の中国には、明らかにこれらが欠けている。上海で起きた地下鉄の事故は、まさにこれに該当する。先般の中国新幹線の事故と照らし合わせると、十分に納得できるだろう。
 さらにもう一つ。高速鉄道や地下鉄などの先端システムを活用するには、それを利用する側のソフトウエア、言い換えれば広義のヒューマンウエアが必要になる。これを言い換えれば民度ということになる。日本では地下鉄のダイヤは2分間隔である。こんな神業のようなことがどうして出来るか。もちろん無人の電車を走らせるなら、1分間隔でも可能だろう。しかし大量の乗客をさばいて乗せるとなるとそうはいかない。中国であれば、10分間隔でも難しかろう。なぜなれば乗客は我先にともみ合いへし合い、大混乱を惹起するからだ。それを整然と行うには、乗る側のマナーや自制心が必要だ。言い換えれば、民度の高さが必要になる。この点では、中国でハイテクノロジーシステムが定着するには、相当の年月が掛かるだろう。
 以上の2点を等閑にしたまま、コピーした高度なシステム製品を輸出すると高言するのは、認識不足も甚だしい。

2011年9月20日火曜日

暗愚な君主は奸臣に騙される

 現在の政治形態を極言すると、専制政治と民主政治の2つしかない。専制政治において、君主になるのは特定個人すなわち王様や皇帝である。一方の民主主義の場合は、国民大衆が君主といえるだろう。
 興味深いのは、政治形態が上記の何れであっても、その国の命運は、君主が賢明か否かで決まる。たとえば専政政治の例を支那の歴史で見てみよう。当時の超大国であった明は、名君とされる洪武帝や永楽帝によって大いに繁栄した。しかし武宗から世宗へと愚君が2代続き、それ以後は衰退の一途を辿った。きっかけは君主の愚昧さを奸臣につけ込まれたからである。
 民主政治が主流になっている現在はどうだろう。直近の日本の例を挙げてみよう。上の論法でいえば、この国の君主は国民である。したがって首相の立場は、国民の下僕ということになる。そのため国民大衆という主人が愚昧である場合は、奸臣すなわち首相以下の閣僚に誑かされることになる。国民にとって、奸臣と言うべき鳩山氏や菅氏を擁する民主党を選んだのは誰か。つまり愚かな君主“国民”自身ということになる。そして、それを唆したのはマスコミというわけだ。天を仰いで慨嘆したい。

2011年9月6日火曜日

有本香の支那論で感じたこと

 小林よしのりと有本香の対談をまとめた「はじめての支那論」を読んだが、実に面白かった。まず中国と言わずに支那というところが面白いし、十分に説得力がある。ここではその詳細は省くが、二人が縦横に語り合っている内容はとてもユニークで、目から鱗が落ちる想いがした。
 私は以前から中国に関心があって、この種の出版物は数多く読んでいるが、どうも釈然としないところがあった。とくに学者が書いたものは分かりづらかった。引用する文献やデーターは豊富で分量が多いのが特徴的だが、大体において結論が曖昧なのだ。こういう考え方もある、ああいう議論もあるというわけで、思わず著者御自身のスタンディングポジションはどうなのですかと尋ねたくなってしまう。それに比べると小林/有本ご両人の論旨は極めて明快だ。
 学者の著書が分かりづらい理由について考えてみたが、これはいわゆる人文科学と称する分野の、学問的方法論に問題があるのではないだろうか。すなわち、内容のほとんどが文献やデータの引用であること。所説を述べるにしても、それらの解説や解釈がほとんどで、自説といえるほどのものが極めて少ない。そこで使うデータや情報も、そのほとんどは、自分の足で稼いだものではない。たまには現地に赴いてインタビューや会議に参加しているが、そこでの相手がまた学識経験者ときている。つまり現場の実生活者からは、距離があるのである。この点は小林/有本とは大きく違う。とくに有本が現場に赴き、体を張って取材した情報の迫力は抜群だ。とくに中国に限って言えば、この国が公表するデータに、どの程度の信憑性があるのか。たとえば人口13億と称するが、実際は15億とう説も根強い。GDPが世界第2位になったと騒ぎ立てるが、全く信用できない。学者がこのようなデータを基にして、切り貼り細工のように編集した論説など如何ほどの価値があるのか。
 話はかなり脱線してきたが、最近は人文科学と称する分野の衰退ぶりも目立つようになった。まず気になるのが、書店に並ぶ新刊書にめぼしいものが見当たらないことだ。しかしそれは当然のことかもしれない。そもそも人文科学とは何なのか。たとえば自然科学で用いられるアプローチを模倣して、唯物史観なるものをでっち上げたりしたが、所詮は疑似科学に過ぎなかった。そのほか経済であれ、政治であれこのアプローチによって尤もらしい論説が大いに蔓延ったが、現在ではその多くが空論と見なされている。そのため“論”作りを生業にする学者という職業も、命脈が尽きつつある。小林/有本による支那論(中国論)が、学者による中国論を越えるのは当然だといえよう。

2011年9月2日金曜日

政治家は日本語を忘れたか


 民主党が政権を獲得して以来、わかりにくい用語が氾濫している。内容の空虚さを誤魔化すためかと勘ぐりたくなってしまう。
 まず政権発足時に大声で連呼し、それによって自民党を圧倒したのが「マニフェスト」という単語だった。しかし今となれば、その意味する内容の大半が嘘っぱちであることが判明している。その後もわかりにくい単語が氾濫している。あまりに分かりにくいので、ここでその一覧表を作っておこう。

マニフェスト      政権の政策
アジェンダ       行動計画
とくに大震災後の、官房長官による原発事故関連の説明には困惑した。例を挙げると、
ベンチレーション    排気または換気
モニタリングポスト   観測装置
トレンチ        暗渠
ホールボディカウンター 全身測定器
メルトダウン      溶解

そして最後っぺのように、菅首相による唐突なストレステストの提案だ。ストレステストとは、要するに耐久試験のことなのだ。この提案が新聞の紙面に表れたときは、意味が分からず、大きな誤解をしてしまった。国民は被曝するかも知れない不安でストレスになっているので、そのケアをするためのテストかと思ってしまった。まったく人騒がせなことだ。
 とにかく内容の貧困さを隠すために、奇妙な和製英語を使わないでほしい。語彙の豊富な日本語なのだから、その気になれば和製英語よりは、よほど的確で簡潔な表現ができるはずだ。