2011年10月31日月曜日

誰がわるいのか

 お人好しな国民性のせいか。日本では政策上の犯人捜しがしばしば堂々巡りになりがちである。たとえば今、産業界が苦しんでいる六重苦(異常な円高、高すぎる法人税、貿易自由化の遅れ、厳しすぎる労働規制、温室効果ガス抑制、原発反対による電力不足)の原因については、一応は民主党による政治の過ちと稚拙さにあるとされている。しかしこの論議を突きつめていくうちに、その政権を選んだのはだれかと言うことになり、それを選んだ国民自身だということで、問題がうやむやになってしまう。
 しかし、この議論の進め方は明らかに間違っている。たとえば老人が強盗に襲われたとする。その場合、老人が油断しているのが悪いというだろうか。あるいは老人が抵抗しないのが悪いと言うだろうか。すべては仕掛けた方が悪いのであって、仕掛けられた方が悪いというのは、詭弁としか言いようがない。ところが、この詭弁が政治問題ではまかり通るのである。
 2009年の選挙で民主党が大勝したが、その最大の要因はマスコミによるキャンペーンであった。その露骨な反自民報道によって民主党が大勝したのだ。それをマスコミの煽動にのった善良な国民大衆が悪いというのだろうか。

2011年10月25日火曜日

NHKの改革

NHKの次期経営計画が10月25日に議決された。その最大の目玉は、受信料の10%還元である。経営委員会がこれを強調する理由は、NHKが一般の企業よりコスト意識が低いからだという。たしかにこの指摘には一理がある。そして、この問題は日本の公益企業に共通する問題でもある。嘗ての国鉄、電電公社、日本航空などはその典型的な例といえよう。しかしNHKの問題についていえば、それだけではない。ここでは特に、そのうちの2つについて指摘しておきたい。
 その1は、NHKは公共性に反する偏向放送を行っていることである。そうなってしまった原因は、この組織全体が自らの公共的使命について誤解しているからであろう。結論からいうと、NHKが守るべき公共性の範囲は、日本の国内に止めなければならない。その範囲は、政治形態の違いを含む世界全体ではないのである。理由は言うまでもあるまい。NHKが行っている放送というメディアサービスの料金は、日本以外の国からは徴収していないからだ。
では何をもって偏向放送というか。それについては、あまりに事例が多いが、ここでは二、三の事例を挙げるに止めよう。
1989年に中国でおきた天安門事件では、「クローズアップ現代」の国谷キャスターが、この事件では市民や学生には一人の死傷者もなかったと報じた。これは明らかに中国の意向に副うものである。しかしこのようなウソ放送に対しても、公共放送のNHKには、何らのおとがめがないのである。また中国の漁船が日本の巡視船に体当たりした尖閣事件では、それに憤慨した3000人が渋谷で抗議デモを行ったが、NHKは全く報道しなかった。ロイターやCNN、BBCなど外国のメディアは挙って放送したにも拘わらずだ。
 その2は単に料金を引き下げるだけでなく、コストの内容も公表するべきである。例えばマンネリ化している韓国ドラマを延々と続けるために、年間いくら支払っているのか。また、中国政府が行っている政治キャンペーンのお先棒を担いだ番組がやたらと目につくが、これについてはどの程度の取材費を払っているのか。番組の趣旨からして、むしろ宣伝代行料として相当金額を受け取るべきだが、果たしてどうなっているか。その他アメリカ大リーグに支払っている代金や、科学番組、大型ドラマなど膨大な購入費を使っているはずだ。公共性を言うなら、それを秘密にする理由は全くない。すべてを明らかにしてほしい。これらを明らかにする一方で、NHKが自前で制作している番組がどの程度あるのか。番組のコストと、視聴率の両面で知らせてほしい。
 その他チェック項目はいくつもあるが、取りあえず上の2項目を明らかにするだけでも、公共放送を自認するNHKの問題点が検証できるだろう。さもなければ、この何年かにわたって視聴者が感じてきた欲求不満は解消できないだろう。

2011年10月24日月曜日

”失われた十年は取り戻せるか”

 バブル経済が崩壊した1990年から1999年に至る10年間、日本の経済はずっと沈滞が続いた。このような経済の特異現象は、他の経済圏でも、すでに経験済みの現象である。しかしどういうわけか、この現象はまるで日本固有の問題のように騒がれてきた。その多くは経済ジャーナリズムの論説であり、経済学者の論評であった。日本経済のこの沈滞はさらに止まることがなく、ついに2010年代のすべてから、現在まで続いている。世界経済の牽引役の一端を担う日本のこの有様を見て、いまやGセブンからも、批判の声が上がるようになった。その一方でアメリカは、日本と同じ状態になることを予見し、積極的に対策を講じてきた。たとえばITビジネスとマネーゲームビジネスへの転進である。この変革は一時的には成功したかのようにみえた。それだけに、日本経済の不甲斐なさを遺憾に思ったのであろう。世界経済沈滞の主な原因として、日本をあからさまに批判してきた。しかし今やリーマンショックを契機にして、アメリカは明らかに自信を喪失している。一方、欧州諸国の経済は、ユーローの結成から近年まで順調にみえた。しかしここに来て、明らかに破綻の兆しが表れている。
 世界における現在の産業経済を支える先進文明国は、日本とアメリカ、およびユーローの三者であるが、その何れも「それぞれの理由によって」行き詰まりの悲鳴を上げている。その一方で、それぞれの理由を克服すれば問題が解決できると考えている。
 しかし本当にそうだろうか。問題は、それぞれの固有の問題だろうか。私はそうは思わない。この3者すなわち先進文明国は、共通する問題を抱えている。その共通する問題を認識しなければ、現在の苦境を克服することはできない。ただしこの共通問題は、3者だけのことであって、途上国や後進国とは違う。この点も十分に認識しなければならない。
 三者に共通する問題とは、「過剰」である。過剰消費と過剰生産である。まず過剰消費について言えば、先進文明国ではあらゆる生活必需品、つまりコモディティが飽和状態になっている。この事実を率直に認めなければならない。もちろん例外はあるが、ここではそれには触れない。一方、生産面ではどうか。文明がもたらした生産技術の高度化によってコモディティの「生産過剰」は更に深刻である。
 一方、途上国や後進国の需給関係はどうか。ここでは今も旧式経済学の考え方が通用する。先進文明国がもたらしたあらゆるコモディティに、大いなる潜在需要が期待できる。それが顕在需要に転化する最大の要件は価格である。要するに安ければ良いのである。現在では、それが極めて容易に出来るようになっている。まず製造技術については、開発コストなしでコピーできる。しかも品質は二の次である。かくして中国や韓国などの中進国は、国を挙げてこの路線を走り始めた。あらゆる製品がコモディティ化している。この路線に、先進文明国が介入したり、対抗するのはもはや不可能である。
 以上のように現状を認識したとき、先進文明国の産業・経済は今後どうあるべきか。今こそ、経済学者や評論家が、その蘊蓄と見識を示すべきときであろう。

2011年10月16日日曜日

新聞に未来はあるか

 私の知人の多くは、いわゆる高齢者だ。すでに仕事をリタイヤーしていて、悠々自適の生活を送っている。それでもまだボケているわけではないので、好奇心は旺盛だし、知識欲だって衰えていない。しかし気になるのは、その知識のほとんどを、新聞とテレビに依存していることだ。その一人であるA君の言によると、日本の新聞は実に良くできていて、政治、経済、社会、スポーツ、芸能、文学などがバランス良く網羅されている。しかもレベルが高いという。彼は朝日と日経を購読しているが、それを精読するのに、ほとんど半日を費やしているらしい。他のメンバーも似たような意見だ。
それを聞いて私は恐ろしくなった。相当数の日本人が、その教養や思想を新聞だけに依存しているのだ。しかしそれはとても危険なことだ。まず朝日について言えば、この新聞の社説は“原理主義者”が書く反日論と自虐論だけだ。原理主義者とはある時期から思考停止した人のことだ。その連中が自らを啓蒙ジャーナリズムのエリートと思い込んでいるらしい。あの偽善者めいた、持って回った文体で、ねちねちと自分の国のことを悪し様に言う言説のいやらしさ。しかも、この新聞は狡猾で、自分の考えに副わない事実は記事にしない。これまた一種の世論操作ではないか。しかし一方では、新聞は社会の公器だから公正な報道に尽力していると嘯くのである。左寄りに徹した自分の立ち位置を基準にして、それ以外の意見はすべて右寄りと断定する。だから保守はおろか、中庸の立場さえ攻撃の標的にする。
もう一つの日経新聞についていえば、その商業主義的低俗さは群を抜いている。まずその販促キャンペーンには驚かされる。「一流のビジネスマンは日経を読む」というのが、そのキャッチコピーだ。この新聞のどこが一流なのだ。総合紙になりたいらしが、身の程知らずの、余計なことにエネルギーを使わないでほしい。本来はビジネスの専門紙なのだから、その面でのレベル向上を図るべきだ。しかしその肝心のビジネスに関する記事はどうなのか。他の一般紙と殆ど変わらない。違うのは経済関連のデータを盛りたくさん取り入れているだけだ。こんなものは、その専門機関から入手しているだけで、日経の力量でも何でもない。専門紙の記者たる所以は、日本のビジネスマンに対して、適切で高度なビジネス情報を提供すること、さらには経済に関するしっかりした研究を行って、そえに基づき専門家としての意見や論説を提供することだ。率直に言って日経にはそれが全く無い。たまに意見らしいものがあるが、その多くは借りものか、根拠のない思い込みだ。
 さいわいにして、この猛威をふるった新聞の退嬰的な振る舞いも、次第に通用しなくなってきた。はじめに述べたように旧世代は依然として新聞にこだわっているが、新世代の新聞離れは急速に進んでいる。この傾向が話題になって久しいが、その退勢が好転する気配は全く無い。それを若者の活字離れのせいにしたり、読者の不勉強のせいにしてはならない。すべての原因は新聞人自身の不勉強と、堕落にあるのである。

2011年10月10日月曜日

魅力を失った書店の売り場

 久し振りに丸善を覗いてみたが、どのコーナーにも読みたいと思う本が少ない。とくに新刊書の平置きコーナーに並んでいるもので、魅力を感じさせるものは殆どない。いま流行りの若手が書いた小説など、帯に書かれているキャッチフレーズを一瞥するだけで、うんざりさせられる。ひたすら奇を衒っているだけだ。文学の奥深い香りを感じさせるものは全くない。目を転じて経営・ビジネス書のコーナーを見ると、これはさらに寂しい。経済混迷期の今こそ新しい提案やヒントがほしいのに、経営学者や経営コンサルタントなどの専門家は何をやっているのだろう。尤も経営学ブームの先駈けとなったアメリカ型経営の退潮を見れば、やむを得ないのかもしれないが・・・。一時期は、リーマンショックなどに関連して、強欲な欧米金融業界の内幕ものが派手な装いで書棚を賑やかにしたが、今はそれも姿を消した。片や哲学・思想・政治関係では、古典ばかりが目立つ。多少は面白そうに思われるのは、民主党政治の出鱈目を糾弾している内幕ものだ。たとえば菅前首相の無能ぶりや人柄の悪さを暴いたものなどは、反面教師として読まれているのだろうか。この一角の山積みだけが、大きく凹んでいる。つまり、よく売れているらしいのだ。それにしても、読者というものは同じようなことを考えるものだ。

 出版業界では、不況の原因をインターネットや新しいメディアのせいにしているが、最大の原因は、別のところにあるのではないか。今まさに進行中の社会の激動の実態を正しく把握し、その進むべき未来像を描くために、何らかの指針を与えてくれる著作品がないのである。それは換言すれば、出版に携わる著者や編集者などの見識や能力の問題でもある。この人たちが新たに充電し直すか、新鋭メンバーと交代しない限り、これからさき出版業界が活況を呈することなど、全く期待できない。