2008年12月20日土曜日

首相のKYとマスコミのHY

 先日わが家に遊びに来たカナダの留学生は、麻生首相の国際会議での英語のスピーチを大いに褒めていた。内容に迫力があり、言わんとする趣旨がよく理解できたという。すかさずミスは無かったかと尋ねると、笑いながらかなりあったと答えた。そして直ちに付け加えた。そんなことは問題ではない。海外のマスコミも概ね同じ考えだという。そして付け加えた。日本のマスコミが、KY(空気が読めない)といって、首相をからかうのを不思議がっていた。
 日本の場合はまったく違っている。些細な言葉使いのミスをあげつらい、ついには首相の発言のすべてが疑問視されるように、世論を誘導してしまった。あげくの果てに、首相はKYつまり“空気が読めない人物”というレッテルを貼るにいたった。このような文脈では、首相が訴えようとする問題の本質など論外である。つまりKYを揶揄するマスコミは、HYすなわち本質が読めないのだ。

2008年12月8日月曜日

お役所仕事は老人福祉施設でも変わらない

地方自治体は様々な高齢者福祉事業を行っているが、そのやり方には大いに改善の余地がある。以下はその一例である。
私の知人は埼玉県の某市にあるデイサービスセンターで、高齢者のためのボランティアをやっている。仕事の内容は老人の話し相手になってあげることだが、一人一人に心をこめて対応してあげるので、大いに慕われている。彼女が出掛けていく日を心待ちにしている人が何人もいるらしい。
ある日、彼女はそのセンターの所長から依頼を受けた。入浴サービスを受けている障害老人の、着替えを手伝って欲しいという。気のいい彼女は承諾した。本来、その作業はセンターに所属する専門のヘルパーの役割だから、その日に限ってと思ったからである。しかし所長は、翌日も翌々日も当然のようにその作業を依頼した。当然ながら彼女は抗議した。所長は謝ったが、そのときの弁解が振るっている。何しろ人手が足りないというのだ。
人手が足りなければ、所長は上部のマネジメントに増員を具申すべきだ。勝手にボランティアに肩代わりさせるなど筋違いも甚だしい。
それから何日かたって、障害老人の一人がボランティアの女性に話しかけた。あなたのお陰で、ヘルパーだけでなく他の職員のすべての仕事振りや態度が良くなった、というのだ。たぶん所長の指示によるものだろう。人手不足などではなかった。マネジャーもその部下も、単に仕事を怠けていただけなのだ。

2008年11月28日金曜日

現代芸術はきわものだ

 先日(2008年10月末)横浜トリエンナーレを見に行った。会場を新港ピア、赤レンガ倉庫、三渓園など数ヶ所に設定した大掛かりな催しだった。しかし折角の期待にも拘わらず、内容は惨憺たるモノだった。印象に残ったのは中谷芙二子の作品ぐらいで、他は論ずるに値しないものばかり。横浜まで出向いてまる一日を費やしたのに、時間とエネルギーの空費が悔やまれる。
 しかし収穫が全くなかったわけではない。長年にわたって疑問を持ちながら、理解しようとしてきた努力の馬鹿馬鹿しさに気付いたからだ。今度こそきっぱり現代芸術というまがい物に付き合うのをやめる決心が付いた。
 そもそも現代芸術は、既成のブルジョア的価値観念を打ち壊そうという、前衛的な考え方から生まれた。しかしコミュニズムの崩壊によって思想的な根拠を失い、今ではひたすら奇をてらう観念論に堕している。その結果、鏡の破片を並べたり、ガラクタを天井から吊るして、それに思わせぶりな表題をつけたりする。そして解釈は観客に任せるという。いかにも傲慢に見えるが、その独りよがりはむしろ滑稽というべきだろう。
 現代芸術を標榜するアーティスト?たちは、額縁で飾られた名画を、よそ行きの格好付けスタイルと批判したり、森羅万象は常に動いているのに静止の瞬間だけを描いていると文句をいう。しかしよそ行きのどこが悪い。また動きがなくてもよいではないか。万物はうつろいいくものだからこそ、瞬間の美を捉えてカンバスの上に止める意味があるのだ。
 折りよく9月30日から国立西洋美術館で、ヴイルヘルム・ハンマースホイの展覧会が開かれた。早速見に行ったが、静寂の一瞬を切り取った詩情とも言うべき美しさに息をのんだ。彼の作品については、改めて別稿で述べたい。

2008年10月30日木曜日

軽薄な産業進化論

 野口悠紀雄の「モノづくり幻想が日本経済をダメにする」によると、産業は必然的に1次から2次、2次から3次へと進化するものである。したがって日本も、早急に2次産業依存から、3次産業に構造を変えるべきだという。この考え方は理論とはいえない単なる俗説に過ぎないが、どういうわけか一部の経済学者の間では無条件に信じられている。野口氏もその一人のようだ。
氏は3次産業へ転換する条件として、新たな産業技術の習得、とくに金融工学なるものを高く評価しているようだが、最近のサブプライム問題については、どのような見解をお持ちなのだろうか。また氏は、情報整理の達人としても有名である。その情報整理のノウハウ本は、ミリオンセラーにもなっている。しかし情報整理がうまくなっても、創造性が高まる保証はない。実際、経済学者としての氏の理論面での功績については、私は寡聞にして知るところがない。そこまでは望まないにしても、少なくとも金融工学なるものの、イカサマ性ぐらいは見抜けなかったのだろうか。
 産業の進化を論ずるならば、俗説にこだわらず視点を一新するべきだろう。たとえば1次産業、2次産業、3次産業それぞれは、その産業の枠内でも進化することができる。実際に、産業界ではそうなっている。農業も工業も、その産業内で技術革新を成し遂げ、生産性を大いに高めた。この活動がなければ近年の爆発的な人口増に伴う、膨大な食料の確保や生活必需品を、まかなうことはできなかっただろう。日本はその1次産業や2次産業で大きな貢献をしている。この活動のどこがまずいのか。時代の趨勢に遅れをとっているのか。
進化は、どの方向にも向かうことができる。馬鹿の一つ覚えみたいに、1次から2次、2次から3次という方向しかないと考えるのはあまりにも硬直した考え方だ。

2008年10月17日金曜日

中国の有毒食品

 このところ中国産の有毒食品に関するニュースが引きもきらない。はじめてクローズアップされたのは、かの天洋食品によるギョウザー事件であったが、この問題はずっと以前から潜在していた。ただし何れの場合も事実無根とする中国側の強弁と、それを深く追求しない日本側の弱腰のために、大きな問題にはならなかった。
 しかし最近の状況を見ると、もはや中国といえどもその事実を認めざるを得なくなっている。その原因を推測すると、おどろくほど根が深く範囲も広いようだ。したがって全貌を捉えるのは容易ではないが、取り敢えず思いつく諸点を挙げてみたい。
① 共産主義国家の価値観は、自由主義国家の価値観と本質的に異なる。たとえば人命尊重という  最も素朴な倫理観さえ確立していない。革命に反するものを容赦なく処刑するのは、そのためである。革命という目的のためには、手段を選ばない。ロシアの革命や中国の革命による大量殺戮は、その恐ろしさを証明している。この人命軽視の残虐性が平気で毒入り食品をつくり、他国に輸出する暴挙につながっているのではないだろうか。
② エリート集団の政府と、一般国民との乖離が著しい。この両者は、まるで近代国家と古代国家の二つに分かれて住んでいるようにも見える。現在では中国政府といえども、有毒食品については本気で取り締まろうとしている。しかし取締りの相手は別の国に住む民度の低い一般国民である。これではいくら取り締まりを強化しても際限がない。なにしろ13億人に対して、エリートの数はごくわずかに過ぎないからだ。
③ 江沢民による反日教育の成果が、いまや満開の状態である。この教育で育った世代が働き盛りとなり、大衆の意識をリードしている。彼らが日本人を憎悪する心情はただ事ではない。そのため日本人に危害を加えても、それほど良心が痛まないという。有毒食品で日本人が死んでも、本心では何とも思っていない。
④ かねて噂される国内テロの一環かもしれない。このような有毒食品事件が頻発すれば、中国の信用が失墜することは明らかだ。それを狙って、中国の国内外に散在する反政府分子が、犯行に加担することも十分に考えられる。

 このほかにも中国における有毒食品事件の原因は、いくつも考えることができる。それだけに対策も大へん面倒なことになるだろう。われわれは何時、どんな形で被害を受けることになるか分からない。恐ろしいことになったものだ。

2008年10月12日日曜日

政治家はなぜ直言できないか

 前国土交通相の中山成彬氏は、その率直な発言によって就任後わずか数日で辞任に追い込まれた。一つは成田空港反対派の長年にわたる言動を「ごね得」と評したこと。もう一つは日教組を「日本の教育の癌」と決め付け、この組織を何とか解体したいと発言したためである。当然ながら野党や日教組は大いに反発したが、与党の一部にも批判の声が上がり、遂に辞任を余儀なくされてしまった。
 しかし、この発言のどの部分に問題があるのだろうか。良識ある国民の大部分は、本音ではその正しさを認めているはずだ。それにも拘わらず表立っては、誰一人として中山発言を擁護しなかった。このようなことでは、政治家はいっさい本音を語ることはできないだろう。彼らは何を恐れて、率直な発言を控えるだろうか。考えられる理由は二つだ。
 その一つは言うまでもなく、サヨクやそのシンパによる非難や攻撃である。しかし、これは彼らのアナーキーな立場からすれば当然のことで、いまさら気にする必要もない。問題はもう一つの、「まあまあ主義」とも言うべき一般世論である。上でも述べたように、大衆の本音は中山氏の言い分を肯定している。それにも拘わらず批判するのは「ああまで言わなくても」とか「立場をわきまえず本音を言うのは馬鹿正直だ」ということらしい。果たしてそうだろうか。むしろ本音を言わない方が、間違いではないのか。
 今まで日本人の多くは、本音と建前をうまく使い分けてきた。その巧みさは往々にして、老練さや柔軟さとして評価されてきた。とくに政治家は、私的な場では本音を言い、公的な場では建前を語ることが通例だった。しかし今後の複雑な国内環境や国際環境では、そのような半端な表現では誤解と混乱をもたらすだろう。本音と建前の使い分けは、往々にして偽善や卑怯さにつながることにもなる。この傾向は、日本では近年とくに著しい。その主な原因は、多分マスコミによる言葉狩りのせいでもあろう。これでは真の意味で、言論の自由がないことになる。マスコミは言論の自由を標榜しながら、実は言論の抑圧者に成り下がっている。
 欧米の政治家にはもっと勇気と誇りがある。フランスのサルコジ大統領の例に見るように、自分の考えを隠したり飾ったりせず、率直に表明することによって国民の支持を得てきた。日本の政治家も、これからはそうなってほしい。

2008年9月23日火曜日

総選挙が近づいた

 総選挙が近いという噂だ。ここで私は投票者の一人として選挙を論じるのだから、学者や評論家のように、原則論や一般論でお茶を濁すわけにはいかない。投票日には、麻生氏が率いる自民党に一票を投じることを明言しておきたい。
 そもそも現時点における政治混乱の発端は「ねじれ国会」にある。民主党はこの異常事態に便乗して、政府与党を揺さぶってきた。そのため国会審議は停滞し、国際環境が逼迫しているこの難局に、党利党略のみが横行する惨状となった。
 この状況をもたらした第一の責任は誰にあるのか。それは他でもない。ねじれ投票をやった御当人、すなわち国民そのものである。しょせん一国の政治レベルは、国民ひとり一人の政治レベルの総和になるからだ。
 個人としての日本人の資質をみる限り、おそらく世界でも有数といえるであろう。礼儀、道徳心、技能、職業観、教養、知識など多くの面でそれを認めることができる。それにも拘わらず、政治的な意識や行動については、何故このような低い水準に止まっているのだろうか。
 理由ははっきりしている。政治は個人の生活とは全く別次元の事柄になるからだ。それゆえ他のすべての面で優れていても、政治意識や政治行動に限っては、劣っていても不思議ではないのである。そしてもう一つの理由は、多くの大陸国家の歴史と違って、侵略による国家存亡の危機に見舞われた例が極めて少ない。したがって政治のすべては、コップの中の嵐でしかなかったのだ。
 しかし理由はどうであれ、列強諸国と比べて、現在の日本国民の政治意識のレベルが低いことは事実である。結果として政府の対外戦略も一貫性を欠いている。これでは各国の利害が相反し、国際関係が混乱している環境の中で、日本の立場と位置を維持することは困難である。
 たとえば総選挙で民主党が勝てば、あの偏狭な小沢氏が首相に就任するだろう。そして、人気をとるために掲げてきたバラマキと矛盾を孕む政策を実施するだろう。その結果はどうなるか。改めていうまでもあるまい。その大混乱という代償を払わされた後、国民はやっと目覚め、退陣を求めることになるだろう。これによって国民が、政治意識の面で少しは向上するになるだろうか。
 一方、民主党が負けた場合はどうなるか。本来この党は、旧社会党を主力にするサヨクと旧自民党の一部を主力にするウヨクの、野合によって結成されたものである。そして、その水と油のような政治理念は、未だに融合されないままである。両者の共通点はただ一つ。政権の奪取のみだ。それに失敗したら、両者が一つになっている意味は全くなくなる。つまり選挙に負けることは、党の分裂に直結するだろう。
 結論として、自民党が負けても勝っても、この選挙を契機にして国民の政治意識はかなり向上するのではないだろうか。

2008年9月3日水曜日

福田首相の辞任

 福田首相が辞任を表明したというので、大いに非難されている。その内容を分析すると、第一は唐突であること、第二は山積する問題を未解決のまま放置したこと、の2点である。
 しかしその言い分は極めておかしい。そもそも世論は、福田首相の辞任を待ち望んでいたではないか。新聞のアンケート調査によると、内閣支持率は20%そこそこという低水準だった。野党はその数字を根拠にして、政権は一日も早く退陣すべきだと主張してきた。それだけではなく、問責決議まで行っている。つまり首相の早期辞任は、大方の望むところだったのである。
 また、問題を積み残したままだと言うが、これもおかしな言いがかりだ。どの時点で切っても、政治というものに問題がないことなどあり得ない。国内では、一人一人の利害関係で常に対立がある。制度には矛盾もあり、ほころびもある。仮に現時点ではないとしても、条件が変われば評価は一変する。また国際問題は、われわれの意向とは無関係に時々刻々発生し、常に不安定であって予断を許さない。つまり政治には安定という概念がないのだ。だからこそ政治が必要ともいえる。福田首相は、政治が安定するのを待って辞任せよというのは、子供のないものねだりに似た幼稚な意見だ。
 最近における政治の混乱に限って言えば、すべての原因は“ねじれ国会”にある。では、その“ねじれ”が生じた原因は何か。ほかならぬ国民による選挙である。したがって国民こそ、国政混乱の責任を負うべきなのである。政治の混乱は、国民の政治意識を写す鏡に過ぎない。
ただしここまで論及するならば、その国民を誰が動かしたかという問題にも触れなければならない。結論をいうと、それは左傾した日本のマスコミである。戦後の半世紀にわたり、彼らは政治的に純真で無知な国民を煽動し続けてきた。その成果が今やはっきりと現れてきたのである。春秋の筆法によれば、このままでは偏向マスコミが日本を滅ぼすであろう。

2008年8月25日月曜日

ツリー構造型思考の克服

 極端な専門分化の弊害については、多くの人が問題を感じていた。そのため学際的アプローチの必要性は、30年も前から叫ばれていた。しかし問題提起はあっても具体的な方法がなかった。この難問に応えられるようになったのは、ネットワーク思考のおかげだ。とくにインターネットという情報環境や、グーグルの検索しシステムの貢献は大きい。これらの革新的な技術によって、今までツリー構造に制約されていた思考方法は、一挙に開放された。本来ツリー思考は絶対のものではなく、既得権でもない。必要に応じて自由に構築すればよい。重要なのは、情報を集めて、ツリーを構築する方法だ。つまり方法の方法だ。それには新しいデザイン理論と計画理論が大きく貢献できるだろう。それにしてもテクノロジーの効果は大きい。20世紀を代表するアカデミズムが完成したために、ツリー構造型の科学や哲学はかえって行き詰まりになっていた。それをブレイクスルーしたのが、インターネット技術とグーグルの検索技術である。

2008年8月24日日曜日

忍耐は才能

 昨日、タクシーの運転手から面白い話を聞いた。彼は子供のころから絵が好きで、我流で描いてきたが、5年前からある大きな会派に属するようになったという。その後わずか3年で大賞を獲得し、いまでは号7万円で売れるほどになっているらしい。それでもタクシー稼業を続けている理由は、絵では食えないからだ。彼の説明によると、美術大学を出ても絵筆一本で生活できる人は数パーセント以下という。美大にいく人の殆ど全てが、生まれつき絵が上手い。私などは想像もつかないような特別の感覚と才能に恵まれている。その並外れた才能があっても食えないというのである。一方、統計によると、平凡なサラリーマンでも平均年収は500万ほどになるという。運転手にその話をすると、彼は笑って答えた。「平凡なサラリーマンと言うのは間違いです。彼らは大変な才能を元手にして生活しています」。私は膝を乗り出して質問した。「それは何ですか」。鸚鵡返しに返事が返ってきた。「忍耐です。忍耐は才能です。多分それは、画才などは比べ物にならないほど市場価値のある才能でしょう」。"

崖の上のプニョ

 宮崎駿の新作「崖の上のプニョ」を観た。大いに期待していたが、率直な感想をいうと、たいしたことはなかった。以前から彼のファンなので、その作品に馴染みすぎているのかもしれないが、要するに同工異曲で新鮮さがない。
 テクニック面ではデジタル手法を避け、徹底的にアナログ手法にこだわったという。このやり方によって、画面の滑らかさや艶っぽさには見るべきものがあると評価されている。しかし物語のコンセプトや、展開には目新しいものがない。
 実は以前から宮崎の創作の方法に関心があったので、その観点から評価したかった。NHKの“プロフェッショナル・仕事の流儀”では、その要点を次のように紹介している。
 映画の奴隷
宮崎はイメージボードで構想を膨らませ、絵コンテによって脚本化し、アニメーターが描いた原画・動画を自ら手直しする。そして背景美術・色彩設計・撮影など各過程の細部に至るまで自らの色に染め上げる。宮崎にとって、映画制作は「作る」というより、「作らされる」という感覚だという。そこにあるのは、自らを「映画の奴隷」として見立てて、少しでも良い作品を生み出そうとする、全身全霊を捧げてゆくすさまじいまでの気迫だ。ゆえに宮崎は映画に関わる全スタッフに対して峻烈(しゅんれつ)なまでの気構えを求め、またそれ以上のものを自らにも求めていく。
 仕事の範囲は半径3メートル
「となりのトトロ」「千と千尋の神隠し」など数々の作品を世に送り出してきた宮崎。企画を生み出すとき、宮崎は「半径3メートルで仕事をする」という信念を大切にしてきた。宮崎は身近なところで出会ったものを梃子(てこ)にして想像力を最大限に膨らませ、イメージを紡ぎ出してゆく。家の近所で見つけたバス停や、スタッフの娘など、意外なほど近いところにアイデアの種はあるという。宮崎にとって映画とは単なる空想や作り話ではなく、日々の体験や出会ったものから生み出されたものにほかならない。宮崎は映画作りという過程に、自らの人生を刻印しているのだ。
 人に楽しんでもらいたい
67歳にして、宮崎を創作に駆り立てるものは何なのか。宮崎がこれまであまり語ることのなかった胸の内を明かした。「人に楽しんでもらいたいという意識なんだよ、動機はね。なぜ楽しんでもらいたいかといったら、楽しんでもらえたら、自分の存在が許されるんではないかっていう、無用なものではなくてというふうな抑圧が自分の中にあるから。…それは、何か幼児期に形成されたものがあるんだろうと思うんだけど。それを別にほじくりたいとは思わない。僕はとにかく人に楽しんでもらうことが好きですよ」。

 これらのコメントは、宮崎の創作の態度を述べたもので、私が求める“方法”については説明していない。私はアボロジニのエミリーの絵で感じたような、画像で表現する“方法”の本質を知りたいのだ。それは文字で表現する方法とは根本的に違う。文明社会では絵で表現するものと、文字で表現するものとは完全に分業化されている。しかし文字を知らないエミリーの絵には、文明社会では文字で表現せざるをえないものも含んでいる。たとえば民族の歴史感覚や世界観だ。もちろん絵だけでは表現できないものもある。例えば形式知、なかでも論理的な思考プロセスだ。しかし、それがないのは、アポロジーに必要がないからだ。つまり文化の違いなのだ。
 私が宮崎の創作の方法に関心があるのは、彼が形式知や論路的思考を否定しているからだ。彼は日常的に生じるイメージの断片を頭の中(潜在意識)の引き出しに溜め込んでおき、それをテーマに沿って脈絡もなくつなぎ合わせていくらしい。しかし脈絡がないというけれども、それは文明型の論理とか因果関係がないというだけであって、別の次元では脈絡があるらしい。私はそれが知りたいのだ。その脈絡つまり方法によって、宮崎のアニメは作られてきた。
 崖の上のプニョの出来栄えはよくなかったが、作品がいつも成功するとは限らない。したがって作品個々の評価と、方法とは別の話だ。私は、その見地から今後も宮崎の方法に注目し続けたい。

価値観喪失の恐ろしさ

 食品や玩具などの有毒物質入り商品によって、中国の信用は地に落ちたが、このような退廃の原因は何だろう。プリンストン大学のペリー・リンク教授は、中国共産党支配によってもたらされた「価値観の喪失」によるものだという。すなわち中国には共産党が宣伝する真実と、大衆の生活から生まれる真実の二つがあるが、この二つの真実を併存させる矛盾が、価値観の喪失と偽善をもたらした。偽善の実例として、今なお天安門には毛沢東の巨大な肖像画を掲げているが、現実には資本主義の拡散を許している。政治的に従順でさえあれば、経済では何をやってもよいという風潮が生まれてしまったのだ。
 価値観の喪失や混乱は、差し当たっての日常生活には影響がないように見える。しかしその弊害は癌のように、長い年月をかけて健康な体を蝕む。中国では1956年から気狂いじみた反右翼闘争に大衆を駆り立てた。しかし毛沢東の死後は一変して、大衆に経済活動の自由を享受させている。かくして民衆の価値観は拠り所を失い、金儲けのためなら何をやっても良いという恐るべき事態に陥ったのだ。
 価値観の喪失がもたらす退廃の、格好の見本は日本である。戦後から現在にいたる戦勝国の政策と、それに便乗した左翼学者やマスコミなどによって、伝統的な価値観はことごとく破壊された。代わって提唱されたのはコスモポリタニズムであり、国連主義である。そのため朝日新聞のごときは、国益という用語さえタブーにしていた。しかし近隣諸国の露骨な国家エゴにさらされるにいたり、惰眠を貪っていた日本にも、どうやら覚醒の気配が窺えるようになった。今こそ祖国が培ってきた価値観を見直し、それに基づいた進路を確立しなければならない。

2008年8月23日土曜日

文学と政治

 文学的センスと政治的センスの間には、大きな隔たりがあるようだが、必ずしもそうではない。たとえばアンドレ・マルローは、政治への情熱と、文学への情熱を区別しなかった。日本でも三島由紀夫や江藤淳、大江健三郎、三浦朱門、村上龍など事例は多い。逆にドゴール、チャーチル、毛沢東など文学のセンスに恵まれた政治家の名前を挙げることもできる。日本の顕著な例は石原慎太郎だが、中曽根康弘元首相も俳人として知られている。
 文学的センスと政治的センスの間には、共通するものがあるのかもしれない。立花隆は政治家を、言語操作のプロだといったことがある。この見方も、文学と政治の共通する一つの側面を捉えたものといえるだろう。オバマとクリントンの選挙戦をみると一層その感を深くする。
しかし文学センスと政治センスは、もっと本質的な点で共通しているように思われる。あえて言えば、それは文学者あるいは政治家として、対象を認識する態度と方法ではないだろうか。文学および政治を構成するカテゴリーは、イデオロギー、テーマ、イメージ、デザイン、モチベーション、コントロール、コミュニケーション、・・・など筆紙に尽くせないほど多岐にわたる。この多様さと複雑さこそ、文学と政治の共通点である。
たとえばコミュニケーションについて考えてみよう。コミュニケーションの局面でも文学や政治では、無数ともいえる要素を考慮しなければならない。要素間には矛盾があるし、しかも時間とともに変化する。コミュニケーションを構成する要素の例として、人間を取り上げてみよう。男と女、老人と若者、善人と悪人、金持ちと貧乏人、学歴、職業・・・・このように分類していくと、おそらく際限がないだろう。しかもこの無数の要素の間および要素の内部では、必ず葛藤や争いが発生する。政治と文学は、このような取りとめもないもの、いわば混沌を対象にしなければならない。その難しさはただ事ではない。この複雑怪奇な状況に臨んで、行動の引き金になるセンサーは何か。多分それは、対象と状況を鋭敏に感じ取る能力であろう。言い換えれば認識能力である。
かくして対象や状況を鋭敏に感じとるセンス=認識能力こそ、文学と政治に共通する不可欠の能力といえるのである。かなり突飛な話だが、この仮説で文学者を評価してみたらどうだろう。例えば大江健三郎。一時はアナーキーな政治スタンスで人気を得たが、今では色あせている。とくに「沖縄ノート」では、劣弱な取材力(認識力)を露呈した。村上龍も、デビュー作の「限りなく透明に近いブルー」で示した感覚はすごかった。しかし「ハバナモード」あたりから最近のJMMにいたる政治的な発言を見ると、幾許の未熟さを感じる。そうとなれば、文学者としての村上龍についても、多少の評価替えが必要になるのだろうか。

2008年8月14日木曜日

脱亜論と別亜論

 敗戦後、すでに半世紀を遥かに越えるというのに、中国や韓国による謝罪要求や責任追及は止まることがない。その声が一時的に収まるのは、オリンピックや経済ピンチで、日本の賛同や援助が必要なときだけである。いずれ国内政局が紛糾したときは、世論をそらすために必ずや、政府主導による日本非難が始まるだろう。
 このようないやらしさは今に始まったことではなく、すでに明治時代から続いている。そのため福沢諭吉は脱亜入欧論を主張した。とくに当時の日本の基本路線であった東アジアとの交流強化は、本当に必要なのかと疑問を呈したのである。東アジア諸国とは、要するに中国と韓国のことだ。日本がこれらの因循な国から得るものは少ない。それよりは欧米諸国と親交を結ぶ方が、お互い利益することが多いと考えたのだ。
 この脱亜論は今も評判が悪い。とくにサヨクからはコテンパンだ。アジアという位置にあって共通する文化をもちながら、あえて孤児になる道を選ぶのかというわけだ。しかし日本と、これらの国の文化は、本当に共通するところがあるのだろうか。たしかに肌の色や容姿は似ているし、漢字を使ってもいる。しかしそれだけのことで、文化が共通すると言えるだろうか。
 筑波大学の古田博司教授は、多くの著書(たとえば“新しい神の国”)によってこの疑問を解き明かしている。つまり日本の文化は、中国や韓国のそれとは全く別物なのである。したがって日本は、殊更に東アジア文化から脱する必要はなく、はじめから別の文化をもつ国である。すなわちアジアを脱する意味の脱亜ではなく、アジアとは別を意味する別亜なのである。
 東アジア諸国との外交関係については、従来は地政学的な見地から論じられることが多かった。しかしこれからは文化論的な見地から検討する必要があるだろう。私は今まで日本の混迷が、文化論と文明論の混同によって生じるところが大きいと考えてきたが、その考察の範囲をさらに拡大し、国際関係論にまで及ぼす必要があると考えるに至っている。

2008年8月3日日曜日

デジカメ短歌の薦め

 七十歳を超えて間もなく、私は長年やってきた仕事から離れた。そのときの開放感と空虚感が交錯する不思議な感じは、いまでもはっきり覚えている。はじめのうちは開放感の方が強かったが、時間が経つにつれて空虚感が高まってきた。どのようにしてあり余る時間を使いこなすか。旅行したり散歩したり、カルチャークラブに参加したり、落ち着かない毎日だった。今更ながら、仕事一筋に過ごしてきた人生を悔やんだり、懐かしく思ったりした。
やがて誰もがやるように、本気で趣味探しをはじめた。油絵、ダンス、英会話、囲碁など手当たり次第にやってみた。たとえば囲碁の場合は、いつも負かされる相手の段位を尋ねたところ、まだ4級だという答えだった。これでは初心者の私ごときが、人並みになるには何年かかるかわからない。結局のところ、不器用な私は何一つとしてものにすることができなかった。
思案投げ首のある日、たまたま山本夏彦のエッセイ集“一寸さきはヤミがいい”を開いたところ、短歌に関する一稿があった。それによると、短歌はもともと芸術というほどのものではなく、庶民のちょっとした心得程度のものだったらしい。内容や形式や季語などと、難しく考える必要はなかったようだ。あえて言えば、リズム感を形成する5,7,5,7,7という文字数の約束だけだった。これなら私でもできそうだ。そう考えて始めたが、やっているうちにだんだん欲が出てきた。たんに文字を並べるだけでなく、家族や知人にも詠んだときの気持ちが伝わるようにしたいと思うようになった。そう考えたとき、閃くものがあった。そうだ!文字と写真を組み合わせたらどうだろう。私の短歌は、満点を100とすると30点にもならないし、写真も同じ程度だ。しかし2つを組み合わせると、30+30で60になるかもしれません。このやり方は大げさに言えば、新しいジャンルの開発ではないだろうか。早速この方法に「写真短歌」という名前をつけた。作品をいくつか知人や家族に見せたところ、お世辞だったかもしれないが、わりに好評だった。もともと芸術などと気取るつもりはない。ただ自分が納得できるものであればよいのだ。そしてもう一つ条件をつければ、安直にできることである。「短歌写真」は、この二つの条件にぴったりといえるだろう。

2008年7月21日月曜日

エミリー・ウングワレー展」を見て

 先週の半ば国立新美術館でエミリー・ウングワレー展を見たが、その新鮮な感動の記憶は今なお脳裏に鮮やかだ。
 エミリーの出自はオーストラリアの原住民アボロジニで、大陸中央の砂漠地帯で生まれ、そこで生涯を終えた。そのため地球の他の地域とは全く隔絶した文化を継承したので、その画風も独特のものだ。点描画に似ているといわれることもあるが、本質的に異なるものだ。点描画の場合は視覚混合の理論に基づいて表現する手法である。しかしエミリーはそんな理論や手法とは無関係に、内発する動機が点描のような表現をもたらしたのだ。しかもその絵には、文明人が長い年月を掛けて忘却し廃棄してしまったものが内包されている。すなわち文字を超越するメッセージだ。
 もちろん文明人の絵は、さまざまな情感を伝えることができる。しかしそれはあくまで情感であって、言葉ではない。言葉は、口舌と文字でしか表すことができない。この文字の発明と操作こそ、文明の最も本質的な特徴といえるのである。一方、アボロジニには文字が無い。その代わり絵が、文字の役割も兼ねているのである。祖先から伝わった神話や歴史は、すべて絵の中に込められている。彼らは文字が無くても不便を感じない。文字の力を絶対視するのは、文明人の偏見というべきだろう。仮にエミリーの絵が語りかけるメッセージを、すべて文字で表すとしたら、いったい何万語を費やさなければならないだろう。
 エミリーの絵によって、私は多くのことを考え直すきっかけができた。例えば、彼女がカンバスや絵具という新しい材料に出会ったのは78歳のときだという。それから8年後に没するまでに3000点から4000点の作品を残した。その僅かの期間に爆発したエネルギーの源泉はいったい何なのか。奇しくも私はいま78歳だが、とてもそのようなエネルギーを持ち合わせてはいない。仮に持っているとしても、そのエネルギーをぶっつける対象が無い。いや、無いと思い込んでいるだけかもしれない。彼女の絵をみることによって、文明人がもっている常識なるものに、改めて疑問を感じざるを得ない。

2008年7月12日土曜日

グーグルのニュース

 グーグルの「ニュース」によって、600以上に及ぶ新聞やテレビのサイトから、最新のニュースを検索することができるようになった。その便利さは格別だが、それ以上に好ましく思うのは、記事の見出しにアクセントをつけないことである。どんなに重要と思われるニュースでも、淡々と発生順に並べているだけである。
 一般に新聞は、事件の重要度に応じて段組みや活字の大きさを変えている。しかし問題は、誰が如何なる基準によって、その重要性を判断するかである。たとえば朝日新聞の記者は、かつて自社の編集方針を「啓蒙」と「反権力」であると嘯いた。「啓蒙」とは、読者を見下している証拠である。また「反権力」とは、現代における民主国家の権力が、合意に基づく意思決定機能に進化していることに気づかないための偏見である。未だにスターリンやヒトラーの亡霊に取り付かれているのだろうか。時代錯誤としか言いようがない。
 時代遅れないし偏見まみれの記者による価値判断によって、新聞の読者は無意識のうちに、その思想や価値判断に洗脳されてしまう。とくに紙面の見出し、段組の配置、大きさの影響力は大きい。新聞の読者にとって必要なのは事実だけであって、その価値や意味の深さは自分で判断しなければならない。記者の勝手な判断や偏った思想を押し付けられるのは極めて迷惑である。
 グーグルのニュースサイトによって、以上の弊害を一掃することができる。偏向思想の記者による価値観の押し付けもないし、偽善的な啓蒙記事に惑わされることもない。事実を無機的に羅列したグーグルのニュース項目を眺めた上で、読みたい記事を選択すれば良いのである。

グーグルのニュース

 グーグルの「ニュース」によって、600以上に及ぶ新聞やテレビのサイトから、最新のニュースを検索することができるようになった。その便利さは格別だが、それ以上に好ましく思うのは、記事の見出しにアクセントをつけないことである。どんなに重要と思われるニュースでも、淡々と発生順に並べているだけである。
 一般に新聞は、事件の重要度に応じて段組みや活字の大きさを変えている。しかし問題は、誰が如何なる基準によって、その重要性を判断するかである。たとえば朝日新聞の記者は、かつて自社の編集方針を「啓蒙」と「反権力」であると嘯いた。「啓蒙」とは、読者を見下している証拠である。また「反権力」とは、現代における民主国家の権力が、合意に基づく意思決定機能に進化していることに気づかないための偏見である。未だにスターリンやヒトラーの亡霊に取り付かれているのだろうか。時代錯誤としか言いようがない。
 時代遅れないし偏見まみれの記者による価値判断によって、新聞の読者は無意識のうちに、その思想や価値判断に洗脳されてしまう。とくに紙面の見出し、段組の配置、大きさの影響力は大きい。新聞の読者にとって必要なのは事実だけであって、その価値や意味の深さは自分で判断しなければならない。記者の勝手な判断や偏った思想を押し付けられるのは極めて迷惑である。
 グーグルのニュースサイトによって、以上の弊害を一掃することができる。偏向思想の記者による価値観の押し付けもないし、偽善的な啓蒙記事に惑わされることもない。事実を無機的に羅列したグーグルのニュース項目を眺めた上で、読みたい記事を選択すれば良いのである。

インフレ懸念のときに消費者庁!

 福田首相は消費者庁の創設に意欲を燃やしている。その理由として、消費者の立場に立った安全と効率化を目指すという。この提言を額面どおり受け止めても、ごく当たり前のことで何の変哲もない。いまさら何を、という感じだ。それにしても、このような発想が必要かつ有効に作用し得るのは、経済がデフレ傾向にあるときではないだろうか。これから懸念すべきは、むしろインフレ対策であろう。
20世紀の後半は、先進諸国の技術革新によって、生産力すなわち世界市場への相対的な供給力は、需要を大きく上回っていた。そのため生産過剰をもたらし、慢性的な買い手市場になっていた。結果として第1次産業や第2次産業の比重は低下し、第3次産業への転換の必要性が喧伝された。
 しかしいまや状況は変わりつつある。原因の第一は中国、インドなどいわゆる中進国の台頭である。そのためこれらの国の生活水準は大いに高まり、消費物資へのニーズは爆発した。その影響は世界経済のすべてに及んでいる。とくに石油、食料、鉄鋼などの基幹物資の価格は高騰している。もはやインフレの気配は明らかである。将来も現在のような生産過剰状態が続くと考えるのは、大局的には時代錯誤というべきだろう。
この期に及びデフレベースの消費重点政策を強調するのは、将来の経済環境に関する基本認識が、あまりにもワンパターンで硬直しているように思われる。むしろ来るべき供給不足時代にふさわしい生産重視戦略や、それに基く政策こそ焦眉の課題ではないだろうか。

2008年7月7日月曜日

会社は誰のものか

 サラリーマン時代、城山三郎のデビュー作となった「総会屋錦城」を、共感をもって読んだことを思い出す。その後私は経営コンサルタントという職業についたが、経営者の実態を見るにつけ会社は誰のものかという疑問を持ち始めた。とくに不快だったのは経営者による企業の私物化であった。彼らの思い上がりを抑止するには、錦城のような総会屋は必要悪とさえ考えた。法的に言えば答えは簡単で、会社は株主のものだ。しかし当時は株式所有の大衆化によって、個人株主はその自覚がなかった。大株主として陰の実権を握っていたのは資金を貸している銀行と、株式の持ち合い関係にある企業だった。その後ろ楯によって経営を委託された番頭に過ぎない経営者(特に社長)は権力をほしいままにした。大株主とは合い見たがいの関係だったので、よほどの失態がない限り干渉を受けることはなかったからだ。トップ交代は禅譲か役員会内部のクーデターに限られた。関電事件や三越事件、松阪屋はその代表例だ。私見では会社は株主、従業員、経営者の三者のものと考える。川俣社長時代の日産は組合との馴れ合い経営で有名だ。この場合は、コケにされたのは三者のうちの零細株主だけということになる。このような奇妙な日本的経営の権力構造は、最近になって覆された。そして株主の権力が圧倒的に強まった。原因は株式相互持合いの禁止、銀行の貸し出し率の低下などだ。一方で機関投資家の台頭により株主の権力は肥大化した。形式論的にいえば正常な姿だ。しかし実際には不具合が多い。株主の多くは目先の値上がりだけを期待するので、経営者に短期利益の追求だけを求める。企業や事業の長期的な発展には関心がない。マックスウエーバーが論じた資本家の精神などは全く期待できない。ここでもまた、大きな弊害が生じている。

2008年7月4日金曜日

北条小学校の思い出

 教育の荒廃が叫ばれて久しくなりますが、未だに改善の気配は見えていません。荒廃の原因となった責任の所在や、対策についてはうんざりするほど論じられてきたのに、どうしてでしょう。この難問に対して私は、無謀にも一つの仮説を提示したいと思います。
 結論から言うと教育の決め手は、個人が本能的に希求する“存在証明(アイデンティティ)願望”の理解にあると考えています。その理由を私の体験からお話しします。  親父の仕事の都合で、私は小学校を6回変わりました。そのうち北条小学校(現在の兵庫県加西市)に転校したのは2年の2学期でしたが、3学期の終わりにはもう転出しなければなりませんでした。教室では、いつも青ばなを垂らした冴えない生徒でした。そのため友達は一人もなく、登校するのが辛かった。
お別れの当日、みんなに口ごもりながら挨拶したあと、一人とぼとぼと校門の方に歩いて行きました。その時、後から追いかけてくる足音がして、「田中くん」と呼びとめられました。担任の先生でした。そして私の手をとって、校門の横にある桜の木の下に連れていきました。「田中くん。君はクラスで2番だったのよ」。先生はいきなりそう言いました。私は口をあんぐり開けて、彼女の顔を見つめました。ニキビが目立つ顔でした。いま考えれば、彼女は師範学校を出たばかりの新米教師だったのでしょう。そして続けました。「転校しても、2番だったことを忘れてはだめよ」。
 そのあとも、少し話したように思いますが何も覚えていません。私は思いがけず2番と言われたことで、有頂天になっていました。全く想像もしなかったからです。 その後も転校を繰り返し、いじめにもあいました。そんなとき何時も心の支えになったのは、2番というキーワードでした。 たぶん2番というのは、本当ではなかったと思います。出来の悪い生徒だったことは、私自身がよく知っていました。それでもあのように嬉しかったのは、先生に無視されなかったという喜びでしょう。
人間の一生なんて儚いものです。だからこそ、人は誰でも無意識のうちに、自分の存在を証明したいし、認めてもらいたいと思っています。「士はおのれを知るもののために、死す」という中国の古い格言もそれを表しています。小説家も絵描きも、作品を通して“存在証明”に生涯を賭けます。かくして人を動機づける最も本質的な契機は、その人の存在証明願望を認めることだと思います。小手先の教育システムや手法ではないはずです。堂々巡りになりかねない教育論議も、この本質部分から始めたらどうだろうかと考えています。

2008年7月1日火曜日

文学と政治

 文学的センスと政治的センスの間には、大きな隔たりがあるようだが、必ずしもそうではない。たとえばアンドレ・マルローは、政治への情熱と、文学への情熱を区別しなかった。日本でも三島由紀夫や江藤淳、大江健三郎、三浦朱門、村上龍など事例は多い。逆にドゴール、チャーチル、毛沢東など文学のセンスに恵まれた政治家の名前を挙げることもできる。日本の顕著な例は石原慎太郎だが、中曽根康弘元首相も俳人として知られている。
 文学的センスと政治的センスの間には、共通するものがあるのかもしれない。立花隆は政治家を、言語操作のプロだといったことがある。この見方も、文学と政治の共通する一つの側面を捉えたものといえるだろう。オバマとクリントンの選挙戦をみると一層その感を深くする。
しかし文学センスと政治センスは、もっと本質的な点で共通しているように思われる。あえて言えば、それは文学者あるいは政治家として、対象を認識する態度と方法ではないだろうか。文学および政治を構成するカテゴリーは、イデオロギー、テーマ、イメージ、デザイン、モチベーション、コントロール、コミュニケーション、・・・など筆紙に尽くせないほど多岐にわたる。この多様さと複雑さこそ、文学と政治の共通点である。
たとえばコミュニケーションについて考えてみよう。コミュニケーションの局面でも文学や政治では、無数ともいえる要素を考慮しなければならない。要素間には矛盾があるし、しかも時間とともに変化する。コミュニケーションを構成する要素の例として、人間を取り上げてみよう。男と女、老人と若者、善人と悪人、金持ちと貧乏人、学歴、職業・・・・このように分類していくと、おそらく際限がないだろう。しかもこの無数の要素の間および要素の内部では、必ず葛藤や争いが発生する。政治と文学は、このような取りとめもないもの、いわば混沌を対象にしなければならない。その難しさはただ事ではない。この複雑怪奇な状況に臨んで、行動の引き金になるセンサーは何か。多分それは、対象と状況を鋭敏に感じ取る能力であろう。言い換えれば認識能力である。
かくして対象や状況を鋭敏に感じとるセンス=認識能力こそ、文学と政治に共通する不可欠の能力といえるのである。かなり突飛な話だが、この仮説で文学者を評価してみたらどうだろう。例えば大江健三郎。一時はアナーキーな政治スタンスで人気を得たが、今では色あせている。とくに「沖縄ノート」では、劣弱な取材力(認識力)を露呈した。村上龍も、デビュー作の「限りなく透明に近いブルー」で示した感覚はすごかった。しかし「ハバナモード」あたりから最近のJMMにいたる政治的な発言を見ると、幾許の未熟さを感じる。そうとなれば、文学者としての認識力についても、多少の評価替えが必要になるのだろうか。

2008年6月26日木曜日

相変わらずの上昇神話

 NHKスペシャルの「沸騰都市」シリーズで、5月28日に放映された「ドバイ」と翌日の「ロンドン」は、それぞれ見ごたえがあった。2つの都市に共通するのは、経済活動が異常なほど活発なことだ。ドバイの場合は極端な開発ラッシュで、海岸を埋め立てるだけでなく、海中に人口の島を作り始めた。そこに世界中から富豪を集め、贅沢な別荘生活を楽しんでもらおうという計画だ。そのシンボルとなる高層ビルの高さは、800メートルに及ぶという。ロンドンの場合は、いかにもお国柄を反映して、世界一の金融センターになることを目論んでいる。すでに結果は表れていて、今や実態はニューヨークを凌駕しているらしい。
 この二つの都市に共通するのは、現在の活況が将来も続くという期待に支えられていることだ。ドバイの場合は開発が開発を生み、一日単位で地価が上昇している。その期待利益を元手にして、別の開発計画に出資する。その出資は更なる利益をもたらす。まさに投機が投機を生む循環プロセスである。同じようにロンドンは、思い切った金融市場の自由化によって世界中から金融資金が流入した。当初はウインブルドン現象と揶揄されたように、ロンドンの市場で活躍するのはモルガン、ゴールドマン、メリルリンチなどの外国企業が目立T、イギリス企業の影は薄かった。しかし今やロンドンは、単なる場所貸しから世界の金融センターに変貌した。規制をきら投機ファンドをはじめ、世界中の金融資金がロンドンの投機市場に流入する。資金は資金を呼び、止まることを知らない。
 しかし経済活動で、無限の成長ということがあるのだろうか。すでに日本では土地神話に基づくバブルの崩壊を経験している。またアメリカでは、サブプライムシステムによる節度なき信用創造によって、底なしの金融不安に慄いている。
 沸騰都市といわれるドバイとロンドンを支えているのは、結局のところ相変わらずの上昇神話に過ぎないのではないだろうか。今後の成り行きが気がかりでならない。

2008年6月23日月曜日

文明コンプレックスの克服

 韓国の英語熱は相当なものらしい。英語を第二公用語にせよという論者もいるという。お陰で日本もとばっちりを受けている。日本人の英語力は、韓国人と比べてレベルが低いと馬鹿にされている。とくに発音については、くそみそだ。日本の悪口を言えば喜ばれるお国柄だから、格好の餌食になっているわけだ。おなじ植民地になるのだったら、英国やフランスに支配されたら良かったという知識人さえいるという。
 しかし日本も、こと英語コンプレックスに関しては、けっこう情けない時期があった。今でもその傾向がないわけではないが、その発端はたぶん明治の文明開化にあるらしい。長い鎖国の眠りを覚ましてくれたのは、浦賀にやってきた巨大な鋼鉄の軍艦だった。そのあと蒸気機関車をはじめとして、次々に持ち込まれた西欧の便利で珍奇な品々は、まさに驚きと憧憬の的になった。そして国をあげて、これらを作り出す西欧諸国から、できるだけ多くを学びとろうと奔走した。とくに進取の気性に富むもの達は、競って蘭語や独語、英語など欧語の習得に励んだ。
 何しろ西欧から持ち込まれたものは、きらびやかな物品に限らず芸術、軍事、交通、建造物などすべてがすばらしかった。したがって興味の的が、これらを生み出した文明そのものへと広がったのは当然の成り行きである。こうして西欧型の知識体系も、急ピッチで国内に普及するようになった。この動きに最も敏感だったのは知識人や学者であった。しかも彼らが求める知識の多くは、西欧文書の翻訳から得ることができた。日本の知識人が西欧語の習得を最も重視したのはそのためである。
 文明すなわち知識の内容は、形式知である。したがって言語によって伝えることができる。しかし言語で表現できないもの、すなわち文化の内容はいかに優れたものであっても、言語で伝達することはできない。それ故に暗黙知といわれるのである。軽率にも日本の知識人はこの点を見落していた。文化と文明のすべてを言語で表現できると考えた。さらに言えば、文化と文明の区別もしていなかった。それゆえ西欧に対する文明劣等感は、文化劣等感にまで及んだのである。
 形式知の母体は暗黙知である。別の表現をすれば、文明の母胎は文化である。文明開化以来、日本は国を挙げて西欧文明の習得に熱中し、ついにそれと肩を並べるようになった。もはや学ぶべきものはほとんどない。対等の立場で競い合うだけのことだ。しかし知識人の多くはそれに気付かず、閉塞感に苛まされている。西欧文明の翻訳つまり模倣しかやってこなかったからである。彼らには翻訳による模倣はできても、創造はできないのだ。
韓国が英語熱にうなされている現状は、よそ事ではない。日本も同じ道を歩んできたからだ。つまり文化と文明を混同してきたのである。しかし、今や日本は文明と文化の違いに目覚めた。その契機となったのは、科学技術を中心にした西欧文明のエッセンスを、学び尽くしたことに気づいたからである。21世紀の今、西欧型文明の限界は誰の目にも明らかである。環境破壊、地球収奪型経済の破綻、破滅型兵器の独占体制崩壊など枚挙すればきりがない。この閉塞状態を破るにはどうするべきか。答えははっきりしている。西欧型文明を盲信しないで、新しい文明の開発に着手することである。その出発点は、文明の母体である文化の再確認から始まる。日本文化の研究は、いまや緊急の課題である。

2008年6月15日日曜日

国の借金は800兆円!

 財務省によると19年12月末現在、国の借金は800兆円を越えたというという。日本の国家予算の規模は80兆円程度だから、その10年分だ。この数字を見て政策担当者や評論家の一部は、まるで財政破綻が迫っているように騒ぎたてる。しかし一方では、日本の個人金融資産は1545兆円あるから大丈夫という論者もいる。国の借金800兆の殆どは国債であり、その所有者の大部分は国民だ。したがって相殺すると、まだ745兆円も資産オーバーだというのだ。
 この論議の決着が、未だについていないのは実に不思議なことだ。たんなる解釈論ではなく、理路整然と黒白がつけられないものか。経済学者や財政学者はいったい何をしているのだろう。いらいらさせられるので、素人なりに考えをまとめてみた。
 まず国の借金と、個人の財産というのは非対称すなわち次元が違う。これを相殺するのは妙な話だ。極端な話だが、アメリカの総資産から日本の総借金を引き算したとして、その差額に意味はない。相殺計算を意味あるものにするには、資産と負債を同一の次元に置かなければならない。それには、錯綜している概念を以下のように整理する必要がある。
 まず、最上位の経済主体として「国家」を定義する。国家を構成するサブの経済主体は①政府、②地方自治体、③企業法人、④個人、⑤の5つである。たんに「国」というだけでは、この5つの経済主体を区別できない。政府と国家を混同し、一種の丼勘定にしてしまう。これを避けるには、上の区分によってまず国の借金を、①政府の借金(負債)と言い換える。この金額が800兆である。負債があれば資産もあるはずだ。国民財産統計によると政府の資産は106兆になっている。②の地方自治体は負債が100兆円だ。それに対して資産はどうか。県所有の施設など色々あるだろうが、ここでは政府と同じく負債の8分の1として、12兆と仮定しよう。③企業法人については資産は国民財産統計によると、資産は1390兆円で負債は934兆円である。④個人は資産が1545兆円で、負債は400兆になるらしい。⑤その他は、金額が小さい割りに内容が複雑なので省略する。
 以上をまとめると、国家経済を構成する政府、地方自治体、企業法人、個人すべての資産合計は3053兆円である。同様にして負債合計は2334兆円になる。したがって資産合計から負債合計を差し引くと、純資産719兆円が求められる。こうしてみると、資産面で見た日本の国力はたいしたものだ。800兆円ぐらいの借金にはびくともしないと思われる。
 ただし我流ながら、この一連の計算をしてみると、一国の財政に関する理論はあまりにも貧弱だ。私が利用できたデータは国民財産統計と国民経済計算だけだった。したがって道路や港湾さらには国防施設などの膨大なインフラは、資産として計算できない。これらのインフラは年次予算で調達されるので、単年度で処理されるため、繰り越されないからだ。つまり資産にはなっていない。かりに資産にすれば減価償却計算が必要だ。しかし現在の予算制度は、会計論でみると単式簿記だから計算不可能だ。早急に複式簿記に移行すべきだろう。補足しておくが、以上の計算には土地や建物も含まれていない。これらをどう扱うかを明確にした理論がないし、単式簿記では処理できないからだ。しかし土地建物を資産計算の対象にしないのはおかしいと思う。坪当たり何百万円もする土地は、日本中で何坪あるだろう。建物にしても、超高層ビルを筆頭に何棟あるだろう。これらを計算に入れたら、国家の資産は天文学的な数字になるだろう。これらを計算しない理論的根拠はあるのだろうか。
財政や経済の専門家は、なぜ国の財産についての明快な理論や提言を創造できないのか。お互いが勝手な解釈と、意見を言い合うだけなのだ。これほどの重大なテーマに定見はないのかと聞きたい。

2008年5月31日土曜日

日経記者の国籍

5月29日、中国は四川大地震への救援物資の輸送に、日本の航空自衛隊の輸送機派遣を打診していた。要請を受けた政府は大急ぎで準備を始めた。しかし翌30日には、中国は手のひらを返したように断ってきた。まだ日本嫌いの国内世論が強い環境下では、まずいと判断したのだろう。
この一連のどたばた騒ぎの原因は、ひとえに中国側の複雑な事情によるものだ。それを真に受けて真面目に対応した日本政府は馬鹿をみたことになる。批判されるべきは中国である。しかし日経新聞のコメントは全く違っていた。日本政府の軽挙妄動をたしなめるものであった。このような過剰な自己反省的な記事を書く記者は、一体どのような思想の持ち主なのだろう。もし逆の立場なら、中国のマスコミは日本の変心を大いにこき下ろしたに違いない。少なくとも自分の国の判断が間違っていたとは言わないだろう。日経記者の国籍を問いたい。

2008年5月17日土曜日

嫉妬の国民性

 人間行動の大きなエネルギー源は嫉妬である。ただしその発現のしかたは国によって違う。たとえば日本では傑出したものの足を引っ張ることによって、嫉妬を解消する。閉鎖社会の横並び指向が原因であろう。逆にアメリカ人は、ライバルを越えることによって嫉妬を解消する。たぶん開放型社会であるとともに、競争社会であることが原因と思われる。韓国人が日本を嫉妬するのは、「怨」という言葉で象徴される独特の国民性に由来する。これは実にわかりやすい。しかし中国が日本を嫌うのは何故か。閉鎖型で足を引っ張りたいのではないようだ。では開放型で競争を挑みたいのか。そうでもないようだ。どうもわからない。このわかりにくさが、中国の特性か。

2008年5月11日日曜日

国の責任

何か事件があると、マスコミや評論家は「国の責任」という言葉を乱用する。たとえばエイズや肝炎ビールスなどの薬害問題、アスベストによる肺癌問題、環境汚染問題など枚挙に暇がない。これら諸々の問題に対して、国は適切な対策を講じなかったというのがお定まりの論調である。当然ながら行政権が必要とされるすべての分野では、それに伴って責任が生まれる。したがって問題が発生するたびに、国の責任が問われるのは間違いではない。
 しかしよく考えてみると、国の責任とは何だろう。本来、国を構成するのは国民であり、それ以外の何者かによって国が成り立っているわけではない。したがって国の責任を追及することは、自分自身を糾弾することになるのである。つまり人ごとはない。国という抽象的な存在の責任を追及しても意味がないのだ。
 ただし現実問題として、国民の一人一人が行政のすべてにかかわることはできない。そこで分業が行われる。行政を司る役人(官僚)がそれを担当する。つまり国という抽象的な存在が行政を執行するのではなく、特定の役人個人が代行するのである。
 代行者にはそれに相当する権限と責任が生じる。この段階では、もはや「国」ではなく、代行者としての個人名が明確にされなければならない。したがってマスコミや評論家は、国の責任ではなく、役人個人の名前を挙げて責任を問わなければならない。この点を曖昧にするから、行政担当者は緊張感を失うことになるのだ。また役人は、恣意的に権限を行使することにもなる。
 最近、反日的な内容で問題になっている映画「靖国」の事例は、その典型といえるだろう。この映画の製作会社の形態は日本法人になっているが、取締役はすべて中国人である。その会社が製作したいわくつきの映画が、文部科学省の傘下にある日本芸術文化振興会の推薦によって、国から助成金を受けたのである。一部の過激な保守主義者が、その上映阻止を図ったのは、当然の成り行きだったかもしれない。もちろん良識を自認する大新聞は、その行動をヒステリックに非難している。すべては上映阻止にかかわる過激な行動だけがクローズアップされている。
 しかしこの事件を、「国の責任」という立場で捉えるとどうだろうか。自分の国を非難する映画を推奨し、それに助成金を与えるという国があるだろうか。この案件を文部科学省の上層部が知っていたら、おそらく承認しなかったに違いない。しかし実際には、このレベルの案件の採否を決定する権限は、かなり下位の担当官に与えられているだろう。つまり国の権限といっても、実際は特定の個人に与えられているのである。それが組織的に行わなければならない業務の実態である。
 一国の官僚といえども一枚岩ではない。それどころか、中にはとんでもない偏向思想の持ち主がいるかもしれない。その人物が、国という隠れ蓑によって、意図的に反国家的な決定をするかもしれない。その危険を避けるには、案件ごとに責任権限を行使した者の個人名を明らかにすべきである。漠然とした国の責任という言い方では、問題の本質はわからない。国から責任権限を与えられた特定個人の責任を明確にしなければならない。

2008年5月4日日曜日

中国は異形の国

 桜井よしこの表現を借りると、中国は「異形の国」である。この国が惹き起こす数々の事件や問題を想起すると、まさにぴったり当てはまる。たとえば5月2日の産経新聞は、次のように報じている。
    “中国「童工」市場 ”
中国広東省東莞市の電子工場などで、四川省涼山彜族自治州の農村からだまされて連れて来られた子供が強制労働に従事させられていたことが、広東省地元紙・南方都市報の調査報道で明らかになった。同紙の28日付以降の一連の報道によると、広東省一帯には、「童工」と呼ばれる未成年労働者の大規模な市場があり、この5年にわたり数百人が売られてきたという。多くが9歳から16歳の未成年。時間給3・8元以下と同市規定の最低賃金下回る賃金で、月360時間もの長時間労働を強制され、賃金の3分の2は仲買人らに搾取されていた。食事も数日に1回しか与えられず、少女だと仲買人らにレイプされたり、逃げた少年が殺害されたケースもあったという。
 報道をうけて東莞市警察は捜査に乗りだし、2日までに100人以上の子供たちを救出。売買にかかわった15人の容疑者を拘束しているという。中国では昨年6月、山西省臨汾市洪洞県のレンガ工場で大規模な未成年強制労働事件が発覚。これまでひた隠しにされてきた「世界の工場」の違法労働力市場の実態が明らかになってきている。このような事件は、他の文明国ではありえないことだ。しかし驚くべきことに、新興大国を自負する中国では現実に起きている事件なのだ。
いまや中国は、経済や軍事の面では一流国になったと自負している。さらに文化の面でも、一流国の仲間入りをしたいらしい。北京オリンピックの開催と成功に、あれほどこだわるのもそのためである。たしかに着々と実績を積み上げているその実績は、認めなければなるまい。
 しかし、その一方でこの国に対する抜きがたい不信感と違和感は、何に由来するのだろうか。たとえば最近の生々しい記憶では、毒入りギョウザ事件がある。上で転載した強制労働事件も中国なら、あっても不思議ではない。また年間を通じては、何万件にも及ぶ高級役人による汚職事件がある。その一方で産業界では、平気で外国のブランド品をコピーし、これで大もうけしている。
これらの先進国の常識を覆す奇怪な事件のすべてに、中国政府が関与しているわけではないし、奨励しているわけでもあるまい。むしろ最近では、その防止にかなり努力してことも認めなければならない。それにも拘らずこのような問題を根絶できないのは、国民を統率する能力がないのだろうか。
 どうもそうではないらしい。少なくとも政治と外交の面では、恐ろしいほど徹底した統率が行われている。ありとあらゆる反政府的思想や行動は、完全に封殺されている。その数々を述べるのは省くが、たとえば法輪功グループに対する弾圧などは、とても先進国では考えられない。外交もそうだ。日本攻撃のために取り上げてきた靖国神社参拝への非難攻撃の激しさはどうだ。また尖閣諸島周辺では、日本の領海内にある場所で勝手に油田の採掘を行っている。要するに政治や外交における国論の統率は鉄壁ともいえるのだ。しかしそれ以外の経済、道徳、文化などについては全くの後進国なのである。このアンバランスは、他の文明大国では全く見ることができない。中国が、異形の国と揶揄される所以であろう。

2008年4月29日火曜日

存在証明という考え方(病友への手紙)

貴簡を戴きながら、返事が遅れたことをお詫びします。病床に伏す貴兄の心情は察するにあまりあります。お互い年をとり、軽々な言葉のみの慰めなど無意味なことと感じます。
 小生は家内が難病に冒されて以来、毎日を忙しく、しかし虚ろに過ごしています。朝、昼、晩の台所仕事は言うに及ばず、深夜は排尿介助のため1度か2度は起きなければなりません。そのため慢性的な睡眠不足で、思考力や判断力の著しい衰えを感じます。その他の家事や介護にかかわる諸々の雑務は、全く経験がなかっただけに、右往左往するばかりです。しかし病人の立場で考えれば、この程度の苦労など、なきに等しいかもしれません。些細なことでも、手助けする度に、彼女が「ごめんね」と呟く言葉には、身が切られる思いがします。
 小生は、今更ながら「生きる目的」について想いをめぐらせています。そして漠然ながら一つの考えに到達しました。すなわち生きる目的とは、存在証明願望を満たすことではないかということです。この考え方の契機になったのは、父が死の2週間前に小生宛に送ってくれた手紙です。それは不思議な形式と内容のものでした。それでも当時は、一応は遺言書として受け止めていました。しかし今になって考えれば、一介の大工として貧しくしがない一生を終えようとする老人が、渾身の力を込めて書き綴った存在証明書であったと思うのです。金釘流のたどたどしい文字で書かれた手紙の大意は以下のようでした。
自分が貧しい農家の次男であったこと。幼いとき父を失い、母は子供3人を抱えて途方に暮れたこと。親戚の口利きで養子にやられそうになったこと。貰われ先のことが気になったので、ひそかに丘に登りその家を遠望したこと。しかし土壇場になって兄が泣き喚いて反対し、養子話は立ち消えになったこと。以下このような話が、延々と便箋で10枚近くも続きました。
 父の死後も小生は、この手紙のことを時々思い出していました。不器用に生き、自分のことをほとんど語らなかった人が、なぜあのような手紙をくれたのか。最近になって小生は、ようやく一つの仮設に到達しました。つまり存在証明願望という考え方です。それを貴兄にお話したい。
 ヒトの出生は、他の動物と同じように自分の意思に基づくものではありません。しかし成長に伴い、知能は異常に発達します。とくに自意識の自覚は、ヒトの人間たる所以を決定づけることになります。かくして死にいたるまでの活動期は、自己の知能と意識を意志的に制御することによって生きることになります。しかし活動期が過ぎると、人間も他の動物と同じように死ななければなりません。しかもその死は、出生のときと同じように意思に基づくわけではありません。このように人間の意思は、出生や死亡の前後には全く機能しないのです。この点は活動期とは本質的に異なります。
 このように考えれば、生きることとは、制御できない出生と死亡の間の仮初めの出来事に過ぎないのです。したがって生きる目的などと、大げさに考えるほどのことではないかもしれません。事実、いかなる壮大な目的を描き、それを達成したとしても、死後には空しさだけが残るのです。歴史上の評価も、あるときは高くても、あるときは一変します。つまり移ろいやすいのです。かくして普遍的な生きる目的は何か。そもそも、そのようなものが存在するのか。この何年か、小生はこの疑問に取り憑かれてきました。そして最近になり、やっと結論を出しました。存在証明願望を充たすことが生きる目的だと。なぜそのように考えるのか、説明しましょう。
 人間のひとり一人は必ず死にます。それどころかビッグバン以来エントロピーを増大しつづける銀河系そのものが、何億年後には消滅するでしょう。人間は無意識ながら本能的に、その運命を知っています。少なくとも小生はそう信じています。その無常感に浸りながらも人間がやっておきたいのは、何億年という銀河系の寿命とは比べることもできない短い生涯であっても、とにかく生きたという事実を証明することではないでしょうか。すなわち存在証明願望です。この願望は個人ごとに、いろいろなかたちで表れます。ある人は財産を残すことで、存在したことを証明しようとするでしょう。ある人は地位と権力で、存在したことを証明するでしょう。しかし多くの人は、その願望があっても証明するための手だてがありません。小生の父などは、その典型です。そのため小生宛に、あのような稚拙な手紙を書いたのだと思います。
 人を思いやることができるのは、相手がこの存在証明願望を持っていることを知っているからだと思います。その最も端的な例が家族愛でしょう。それに次ぐものが友情でしょうか。どんなに世間で疎まれる人間であっても、家族は許し庇ってくれます。友人の場合も同じです。何故ならば、家族や友人は本人の存在を無条件に肯定してくれるからです。言い換えれば、存在証明願望を充たしてくれるからです。
 いま人生の終末期にある小生にとって、貴重な喜びの一つとなっているのは何か。それは、ほかならぬ貴兄が小生の存在を認めてくれることです。小生もまた生きている限り、けっして貴兄の存在を忘れることはないでしょう。           

2008年1月3日木曜日

イチローの野球

 正月2日に放映されたNHK番組「プロフェッショナル/イチロー・スペシャル」は見ごたえがあった。アメリカ大リーグにおけるイチローの活躍ぶりは周知のことだが、その裏側での努力や悩みについては、あまり知られていなかったからだ。
 最も強く印象付けられたのは、イチローがたんなる天才ではないということだ。彼が野球に取り組む姿は、求道的でさえある。打者はバッターボックスに立ったら、投げ込まれるボールに全精神を集中させなければならない。この点だけについて言えば、他の一流バッターと同じかもしれない。しかしイチローは、たんに集中するだけではなくて、その集中する自分を意識している。つまり自分を他者として観察する冷静さをもっている。この自意識を研ぎ澄ますことによって、自己を完全に制御することができる。昨年まで彼は、技術に自信をもつ体が勝手に反応して、ボール球でもヒットを打たせてくれると考えていた。そのため打ち損じもあった。しかしこれからは彼の制御スキルは、体にストライクボールしか打つことを許さなくなるだろう。かくして心身は一体となり、打率は一段とアップするに違いない。
 さらにイチローの野球は、スポーツでさえ日本人の気質や文化と無縁でないことを教えてくれる。彼は昨年、超200本安打の7年連続記録を達成した。本人によると、この大記録は大へんな重圧のもとでようやく成し遂げたという。世間で当然のことのように思われているのとは全く違う。そしてその重圧の中で、7年目は一つの悟りに近づいたという。それは今までのように重圧に耐えて達成したのではなく、重圧に立ち向かうと覚悟して達成したものらしい。まさに禅僧が苦行から悟りを得るプロセスとそっくりではないか。
 おそらくこれからもイチローの野球は進化し続けるだろう。しかしこのようなイチローの姿は、なにも彼固有のものではなく、むしろ日本人の選手に共通するものである。多かれ少なかれ日本人のスポーツには、このような求道的なスタイルが見受けられる。そのため日本人はフェアーすぎて、国際試合に向かないと揶揄されることもある。しかしそれでも良いではないか。その典型といえるのが、柔道や剣道などの国技である。これらの国技には美学と哲学を伴った求道性がある。なりふり構わず、勝ちさえすればよいのではない。その美学によって負けることがあっても良いではないか。スポーツもまた文化なのだから。