大学生の4人に1人が「平均」の意味を理解していないという。この新聞記事を読んだときは、本当にびっくりした。原因は多分、ゆとり教育や日教組による偏向教育、家庭内の躾など、巷間で言われているあらゆる要因が重なったのだろう。従ってこれを糺すには、本来は初等教育の第一歩から中等教育、高等教育の全てについて、抜本的な改革をやらなければならない。しかし積年の弊がもたらした教育の惨状は、そんな悠長な進め方では役に立たないだろう。仮に出来るとしても、何十年掛かるか分からない。こうなってしまったからには、もはやありきたりの方法ではなく、もっと大胆な対策が必要だ。つまり上流から改革を及ぼすのではなく、下流すなわち大学を変えてしまうのだ。
現在に於ける教育体系のゴールは、大学である。したがってゴールを変えれば、それ以下の教育システムは一変するに違いない。もちろんその過程では大混乱が生じるだろう。そのリスクを冒して現行の大学を廃するとして、その代わりに何を想定するか。
答えは専門学校である。そのモデルは、現在の教育システムが米国から強制される以前に、既に日本にあったものである。さらに原型を辿るとドイツのマイスター制度にも行き着くであろう。専門学校の基本的な目的は、高級実務者の育成であった。この実務に即すという考え方は、本来はリアリズムの精神に通じるものだ。それが何時しか実利主義と混同され、さらにはアカデミズムをモットーにした帝国大学系の過大評価と重なって、一段下に位置づけられるようになった。しかし実際の社会生活で本当に役立ったのは、専門学校を出た実務者である。
ではアカデミズムを標榜した旧大学では何を教えたか。文系で学名を挙げると、法学、経済学、文学、哲学であり、理系では理学、医学、工学であった。面白いことに、理系では当初から理論的な理学の他に、実務的な医学や工学を加えている。たぶん理系では、文系のような観念的なアカデミズムは成り立たなかったのだろう。しかし戦後の新制度になると、専門学校がすべて大学に昇格したので、教科の内容は極めて多様になった。なにしろ専門学校の種類が多かったからだ。例示すると、工業、商業、農業、医療、教育、薬学、芸術、語学、体育、軍事など実にきめ細かく網羅されていた。
その一方で、アカデミズムの象徴ともいうべき哲学は姿を変え、教養学?として装いを新たにした。もはや西欧追随型の観念論が、時代遅れになったからだろう。大学型観念論の象徴とも言うべき経済学や哲学は、実社会では殆ど役に立っていない。今なお健在なのは法学のみであるが、これはもともと実学なのである。また文学はその性格からして、本来は大学で教えられるものではない。大学を出たからといって名作が書けるわけではないのだ。それにも拘わらず文学部をつくったのは、以前に私のブログで触れたように、西欧文明へのコンプレックスである。そのためフランス文学とかドイツ文学とか、当該国の名前を頭につけている。結果として、文学部で学ぶのは文学の創造ではなく、その翻訳や分析・解釈になってしまった。ただし国文学や考古学は本質的に事情が違う。その目的が他国の文明を倣うものではなく、自国の文化を研究することにあるからである。
それでは現在の大学を解体するとして、その後どのように再編するか。私の案は次のとおりである。
① 専門領域別に新専門学校を創設する。新専門学校の種類は、上述した旧制の専門学校を参考にする。ただし社会環境や科学技術の発展を考慮し、それに適合するように種類の増減と改廃を行う。たとえば情報専門学校、文学専門学校、哲学専門学校など。
専門学校の種類を増やす一方で、大学は大幅に縮小する。たとえば哲学専門学校の卒業生は極めて少数と思われるが、大学はそこから適性者だけを受け入れる。哲学に限らず卒業後の就職を考えれば、他の専門学校からの大学希望者も自ずから数が決まる。それに対応して大学の数も決まる。そもそも専門学校での履修内容だけで、実業界のニーズには十分に耐えられるはずだ。仮に不足があるとすれば、それは実務を遂行する過程で習得できる。したがって、その上の大学に進むには何か別のミッションが必要である。大学について考えるには、それを明確にしなければならない。たんに修士や博士などの肩書き授与機関では困るのである。今やそんな肩書きが通用する時代ではない。この問題を考えるには、哲学を例にとると分かりやすい。
金沢大学で哲学を教えている仲正昌樹教授は、その著“知識だけあるバカになるな”で次のように述べている。「常識的に正しい答えだと思っていることが、本当に正しいかどうかは分からない。それどころか本当の答えがあるかどうかさえ分からない。そんな底なし沼の状態で、自分で答えを見つけようと継続的に頑張ること」。それが大学でやることだ・・・・と。
極めて説得力のある説明だが、私はこれに加えて次のように補足したい。
「つまり哲学者とは、“疑いの専門家”である。しかしそのような専門家を、実業界は求めるだろうか。すべてを疑う人物が組織の中で活動したら、仕事はまったく進まない。たぶん採用率はゼロだろう。しかし社会全体でみれば、疑いの専門家が存在するのは大へん有意義である。その専門家をどれだけ保有できるかは、その社会が持つ余裕とビジョンで決まるだろう。以上によって哲学専門学校の定員数も算出できるし、上位の大学で収容し得る人数も想定できる」と。
② 専門学校を主柱にするといっても、大学を全く廃止するのではない。大学には専門学校とは別のミッションが必要である。その要請はあらゆる専門分野ごとに発生する。ただし上でも述べたように、実社会で必要なスキルは全て専門学校の教育で習得できる。その上で何を求めるか。それを極めたら、人員も想定できる。上では哲学の例を取り上げたが、同じことが他の全ての分野でも検討されなければならない。それができない専門分野には大学は必要ないのである。
③ では、大学の定員はどうやって決めるか。上の例によると、哲学とは底なしの疑問の沼にどっぷり漬かることである。そうだとすると、その営みは哲学専門学校では終わらない。さらに続けるには大学が必要になる。この段階では再び適性者の選定が必要になるだろう。このようにして大学の定員も決めることができる。哲学の例と同じく、他の専門大学も定員を決めることは可能である。私の思い付きに過ぎないが、総平均すると専門学校から大学に進む学生の比率は十%程度になるのではないだろうか。卒業してもその多くが一般企業に就職できないから、別の就職口を設定しなければならない。たとえば大学や専門学校の教職や研究所である。しかし、それだけに限定することはないだろう。新概念に基づく大学卒をどれだけ収容できるかは、前にも述べたように、その国家や社会の余裕とビジョンで決まるはずである。
④ 大学の再編を上で述べたようにすると、いわゆる専門バカだらけになって、現代社会が求めるマルチ人間の育成がおろそかになると反論されるかもしれない。それには二つの面で答えることができる。
その1は、マルチ能力とマルチ知識は違うということである。たしかにインターネットが普及する以前は、博識というのは一つの才能であった。しかしインターネットが普及した現在では、知識やデータは簡単に検索できる。
その2は、マルチ能力とは何かということである。簡単にいうと、それは異質の情報を組み合わせて、新しい情報を創出する能力のことである。今のところ、その創出を保証できる方法論は存在しない。当然ながら専門家もいない。専門別のカリキュラムはあっても、創造のためのカリキュラムは存在し得ないのである。その意味で、マルチ人間に必要なマルチ能力の開発は、大学のあり方とは無関係である。