盛り上がり 迫りきたれる 深みどり
樹海の底に 何ぞひそめる
2007年7月31日火曜日
2007年7月30日月曜日
生産はイデオロギーで管理できない
MRPはアメリカで開発された生産管理ソフトであるが、昭和40年代から日本の機械組立工場で普及し、生産管理システムの代名詞のようになった。現在ではこのシステムは、ITの発展にともなって更なる高度化が進んでいる。そのためERPという新たな名称で呼ばれることもある。しかし実際に工場の現場を見ると、MRPが仕様すなわち能書きどおりに使われている例は皆無といってよいだろう。使われているのはごく一部の、部品展開というサブシステムや受発注システムおよび在庫入出庫システムに過ぎない。工場の製造現場で最も苦労している進捗管理については全く役に立たない。それもそのはずで、そもそもMRPには進捗管理というシステム機能がないのである。しかしMRPにはなくても、進捗管理は現場にとって不可欠である。なぜならば、製造の現場では予期せぬトラブルや例外事項が頻発するからである。したがってMRPを導入したすべての工場が、自社固有の進捗管理システムを開発している。その補強によって、MRPはやっと生産管理システムとして機能している。つまり厳密にいうと日本で使われているMRPは、もはやMRPではない。一部にMRPの部品展開システムなどを組み込んだ別のシステムになっているのである。
MRPがこのように有名無実になってしまった原因は何か。それは生産管理という実務の分野にMRP独自のイデオロギーを持ち込んだからである。MRPのシステムコンセプトは、計画通りに作らせるということである。もし計画通りに作れないとしたら理由は2つしかない。その1は計画がまずかったこと。その2は計画通り作らないこと。したがって1の対策は、計画をより一そう精緻にすること。2の対策は、計画通りにやらない現場に何らかの懲罰を加えることである。
MRPが定着しなかった理由は、共産主義経済が破綻した理由とよく似ている。すなわち5カ年計画の例でみられるように、経済を机上の計画だけでコントロールできると考えたからである。何が何でも計画通りやらせるべきという発想は、現実を無視する意味においてイデオロギーである。その意味では、計画偏重のMRPも生産現場にイデオロギーを持ち込んだことになる。うまく行かないのは当然と言えるだろう。
MRPがこのように有名無実になってしまった原因は何か。それは生産管理という実務の分野にMRP独自のイデオロギーを持ち込んだからである。MRPのシステムコンセプトは、計画通りに作らせるということである。もし計画通りに作れないとしたら理由は2つしかない。その1は計画がまずかったこと。その2は計画通り作らないこと。したがって1の対策は、計画をより一そう精緻にすること。2の対策は、計画通りにやらない現場に何らかの懲罰を加えることである。
MRPが定着しなかった理由は、共産主義経済が破綻した理由とよく似ている。すなわち5カ年計画の例でみられるように、経済を机上の計画だけでコントロールできると考えたからである。何が何でも計画通りやらせるべきという発想は、現実を無視する意味においてイデオロギーである。その意味では、計画偏重のMRPも生産現場にイデオロギーを持ち込んだことになる。うまく行かないのは当然と言えるだろう。
2007年7月29日日曜日
抽象画に惹かれる
若い頃はピカソやカンデンスキーなどの抽象画が嫌いだった。いかにも独りよがりで、奇をてらっているように思えたからだ。
しかし近頃は、そうは感じなくなった。なぜだろう。たぶん老齢化にともない、自分の存在自体が抽象的になったのだろう。肉体の輝きやみずみずしさを失い、骨と皮だけになっている。それでも生きているのはどの部分か。肉体とは別のいわゆる知、情、意の3つが辛うじて生を支えているのだろう。この3つは、まさに抽象そのものではないか。
ただ抽象画が好きになったという私の表現は、必ずしも正確ではない。むしろ抽象芸術と言うべきだろう。その意味で一番好きなのはConstantin Brancuci の彫刻である。たとえば Bird in Space と題された作品。鳥が備えている羽や嘴など一切の具象部分を取り除き、単純な曲線だけでつくられたフォルムである。それでも誰が見ても“鳥”であることが分かるのである。
骨と皮だけの抽象的な存在に成り果てた老人であるが、人間であることは誰が見てもわかる。むしろあらゆる夾雑物を排したBrancuciの彫刻のように、人間の生の本質そのものになっているかもしれない。
しかし近頃は、そうは感じなくなった。なぜだろう。たぶん老齢化にともない、自分の存在自体が抽象的になったのだろう。肉体の輝きやみずみずしさを失い、骨と皮だけになっている。それでも生きているのはどの部分か。肉体とは別のいわゆる知、情、意の3つが辛うじて生を支えているのだろう。この3つは、まさに抽象そのものではないか。
ただ抽象画が好きになったという私の表現は、必ずしも正確ではない。むしろ抽象芸術と言うべきだろう。その意味で一番好きなのはConstantin Brancuci の彫刻である。たとえば Bird in Space と題された作品。鳥が備えている羽や嘴など一切の具象部分を取り除き、単純な曲線だけでつくられたフォルムである。それでも誰が見ても“鳥”であることが分かるのである。
骨と皮だけの抽象的な存在に成り果てた老人であるが、人間であることは誰が見てもわかる。むしろあらゆる夾雑物を排したBrancuciの彫刻のように、人間の生の本質そのものになっているかもしれない。
2007年7月28日土曜日
朝日の国益論
笠信太郎が信奉したコスモポリタニズムが次第に先鋭化して、朝日はアナキズムのメッカになってきた。国益概念の否定はその証拠である。したがって自分の国の外交政策を誹謗し、一体どこの国の新聞かと思わせるのは不思議ではない。しかし歴史教科書問題を契機にして、にわかに国益を口にするようになった。ただしその論法は相変わらずである。問題の歴史教科書は韓国や中国から非難されている。それを強行すると、これらの諸国との関係がまずくなるから、国益を損なうというのである。本末転倒のおかしな話しではないか。国益に反するなら、外国の思惑など関係なく主張すべきである。しかしそうではない。外国の思惑に反することは、国益に反するというのである。朝日の論説にはまやかしが多いが、国益論に関しても結局はまやかしであった。
女性は強い
呉善花は、韓国における知識人やマスコミの日本非難を強く批判している。そのポイントの1は、彼らが民族主義を支える便法として反日感情を煽っていること。ポイントの2は、民族主義の論拠が弱く反日感情を利用しないと崩壊してしまうことである。この指摘の明晰さはいうまでもないが、ここで取り上げたいのは女性の強さである。同じことが曾野綾子や上坂冬子、最近では桜井よし子にもいえる。一方、男性はどうか。とくに左傾知識人や大新聞の記者に卑怯さが目立つ。戦中は軍に追従し戦後は共産主義に追従してきた。ただ、政府を批判するときだけ元気さが目立つ。しかし現在の日本では、政府を批判するのが最も安全である。言いたい放題が許される。彼らにとって韓国や中国批判はリスクがあるが、自国政府に対する批判は最もリスクが少ない。この男性知識人の怯懦こそ、今の日本の最大の問題である。ただし、女性が強いといっても、嘗ての土井たか子、田島陽子、田中真紀子、辻某などの類は願い下げにしたい。
2007年7月23日月曜日
大学でビジネスが教えられるか
私の故郷である油津はかつて大漁港として繁栄したが、それに隣接する外浦はみすぼらしかった。しかし今は違う。油津は見る影もないが、外浦の漁業は盛んだ。その理由は幾つかあるが、とくに興味を引くのは後継者だ。油津が繁栄した頃、船主達は子息を大学に入れた。そのため頭でっかちな経営者になったという。一方、外浦は船主も貧しかったので、子息を船に乗せて手伝わせた。彼らはやがて逞しい船主を兼ねる船長になり、スリムな家業的経営に徹した。そのため、幾度かの漁業不況にも耐えることができたという。現場に徹した経営者の発想や働きは機敏で的確だ。その結果、今では最も先進的な経営になっている。彼らは魚を求めて世界中に進出する。そして獲れた魚は、現地で運搬船に移し、そのまま漁を続ける。運搬船は値段のよい市場に直行する。乗組員の交替は、飛行機だ。したがって漁船はメンテナンス以外は現場に止まるので、稼働率にムダがない。また乗組員の70%は外人だ。この効率の良いシステムは、机上では発想できない。現場の知恵だ。大学で教える企業論やベンチャービジネス論を学んで、このような知恵が得られるだろうか。
安藤忠雄のアプローチ
建築家安藤忠雄のデザインが人を引きつけるのは何故か。その秘密は独特の方法論にある。彼はまず依頼主の潜在的なニーズから出発する。それが何かは、依頼主さえわからない。そのニーズは意識下にあるからだ。安藤はそれを追求し仮説に到達する。たとえば寺院建築の場合をみよう。彼は檀家の人々の潜在ニーズを、「安らぎ」というコンセプトで表現した。
次はその設計コンセプトを、どのようにデザインとして具体化するかだ。コンセプトは抽象概念だが、これを具象化しなければならない。この飛躍こそデザインの本質だ。しかし、安藤もそのプロセスを説明することはできない。結果つまりプロダクトとしての設計しか示せない。その代わり彼は、心構えを述べている。それは格闘だという。格闘の結果としてデザインが生まれるという。ボクサーとしての体験がそのアプローチを生んだのか。興味深いところだ。
いずれにしても、コンセプトから具体化への「転換」不可欠だ。しかしそのメカニズムを説明することは出来ない。この点は創造プロセスの分析で、いつも逢着する難問だ。
次はその設計コンセプトを、どのようにデザインとして具体化するかだ。コンセプトは抽象概念だが、これを具象化しなければならない。この飛躍こそデザインの本質だ。しかし、安藤もそのプロセスを説明することはできない。結果つまりプロダクトとしての設計しか示せない。その代わり彼は、心構えを述べている。それは格闘だという。格闘の結果としてデザインが生まれるという。ボクサーとしての体験がそのアプローチを生んだのか。興味深いところだ。
いずれにしても、コンセプトから具体化への「転換」不可欠だ。しかしそのメカニズムを説明することは出来ない。この点は創造プロセスの分析で、いつも逢着する難問だ。
日本人のものづくり
言葉ですべてを表現力することはできない。したがって論理には限界がある。論理的に説明できたからといって、実態を正しく説明できるとは言えない。言葉とは違う表現の例として、形象による方法がある。それを田中正道は「国民の芸術」で詳しく説明している。また同じ趣旨をルドルフ・アルンハイムは、「視覚的思考」で力説している。
しかしデジタル思考が蔓延している現在では、言語すなわち論理が万能かのように誤解されている。近年におけるアメリカ直輸入の生産管理論も、デジタルな情報処理技術一辺倒である。しかしものづくりは、言語的な知識や意識だけではなく、肉体や感覚なども含めた全人格的な行為である。日本の生産が5Sや匠の技によって世界一の評価を得ているのはそのためである。
しかしデジタル思考が蔓延している現在では、言語すなわち論理が万能かのように誤解されている。近年におけるアメリカ直輸入の生産管理論も、デジタルな情報処理技術一辺倒である。しかしものづくりは、言語的な知識や意識だけではなく、肉体や感覚なども含めた全人格的な行為である。日本の生産が5Sや匠の技によって世界一の評価を得ているのはそのためである。
2007年7月22日日曜日
溶解する日本
現在の日本の状況を表すキーワードは「溶解」である。長い歴史を重ねて培った秩序は、音を立てて崩壊しつつある。溶解と混沌は似ているが本質的に違うものである。秩序がない点では、溶解と混沌は似ている。しかし混沌とは、いまから何かを生み出す胎動のぷろせすである。しかし溶解はそれとは正反対で、何かの秩序が終焉に向かうプロセスだ。つまり方向が全く違う。混沌は生誕の前触れであるが、溶解の向かうところは消滅である。社会の秩序、親子や夫婦のきずな、倫理の崩壊など全てについていえる。どうすれば、日本に再生のエネルギーをもたらすことができるだろうか。
2007年7月20日金曜日
アメリカ野球選手は経営者
アメリカ野球における一流選手の年俸は驚くほど高額である。しかし、そのうちの相当部分を、自分のスキルアップや心身強化のために費やしている。たとえば精神的な葛藤に耐えるためにカウンセラーを雇っている。あるいはベストフォームを維持するためにトレーナーを使っている。球団にもサポーティングスタフはいるが、それらとは別に自前でスタフを抱えているのである。つまり彼等の意識は、経営者である。だから商品としての自己のスキルや体力、精神力を高めるためには投資を惜しまない。
2007年7月18日水曜日
プラトンには倫理観がなかった」
倫理観とは何か。宗教のように神の存在を認めることではなく、論理的で無機質な思考でもない。敢えていえば「生かされていることへの感謝」といえないだろうか。プラトンにはその考えはなかった。彼は倫理の徳目として、勇気、節制、美の3つだけしか挙げていない。しかしそれだけでは倫理は成り立たない。彼は生産行為を蔑視していた。その理由は、生産は卑しい奴隷が行う行為だったからである。大哲学者としての思考三昧の生活が、生産活動の上に成り立っていることに気づかなかったわけだ。これは倫理的ではない。
嫉妬の民族性
嫉妬は、人間行動の有力なエネルギー源である。しかし民族によって発現のしかたが違う。日本では傑出したものの足を引っ張ることによって、嫉妬を解消する。閉鎖社会の横並び指向が原因であろう。逆にアメリカ人は、ライバルを越えることによって嫉妬を解消する。典型的な競争社会なのだ。たぶん開放型の社会であることが原因だろう。韓国が日本に嫉妬するのは開放性と閉鎖性の両方を具備する半島人独特の民族性だ。ただ中国が日本を嫌うのも嫉妬によるのだろうか。古くは倭国と呼んで蔑視していたのに、近年は経済や科学技術で大いに遅れをとった。そのため優越感と劣等感が一種の捩れ現象となって、嫉妬の感情を生み出しているのかもしれない。
嫉妬の民族性
嫉妬は、人間行動の有力なエネルギー源である。しかし民族によって発現のしかたが違う。日本では傑出したものの足を引っ張ることによって、嫉妬を解消する。閉鎖社会の横並び指向が原因であろう。逆にアメリカ人は、ライバルを越えることによって嫉妬を解消する。典型的な競争社会なのだ。たぶん開放型の社会であることが原因だろう。韓国が日本に嫉妬するのは開放性と閉鎖性の両方を具備する半島人独特の民族性だ。ただ中国が日本を嫌うのも嫉妬によるのだろうか。古くは倭国と呼んで蔑視していたのに、近年は経済や科学技術で大いに遅れをとった。そのため優越感と劣等感が一種の捩れ現象となって、嫉妬の感情を生み出しているのかもしれない。
プラトンと主知主義者は似ている
プラトンは哲学の始祖として尊敬されているが、手を使ったモノづくりは軽蔑した。モノつくりは奴隷の仕事だったからである。頭で考える哲学を至高のものと位置づけた。しかし、エリートの安寧が許される社会基盤そのものには考えが及ばなかった。この傲慢は現在のアナキストや主知主義者にも当てはまる。世俗を超越した言説を述べるが、その世俗に自分の安逸が支えられていることに気づいていない。
2007年7月17日火曜日
中国の歴史認識
以前、青海チベット鉄道を紹介するテレビを見た。北京からラサまでの長大な旅だ。途中には広大な山地が広がっている。最も高い地点では標高5000メートルを超えるという。しかし終点のラサはわずか40万の都市だ。途中にも大した都市はない。したがって観光客以外は、そんなに多くの乗客は期待できない。それを反映してダイヤの密度も薄い。1日あたり1往復しかない。他に数本のローカル便が1日おきに走るだけだ。景観は確かにすごいが、これではとても採算は取れない。しかし中国はそれを問題にしていない。目的は他にあるからだ。つまりこの鉄道敷設によって、チベットが中国の一部であることを内外に闡明したいのだ。チベットが中国の一部であるとする根拠はどこにあるのか。それは元の時代に領有したからだという。驚くではないか。そんな理屈が通るのだろうか。しかし中国の歴史認識ではそうなるという。この場合の歴史認識は800年前を対象にしている。しかし江沢民が日本に対して主張した歴史認識は、60年前の満州事変頃に限定している。それ以前の歴史は対象にしていない。だからこそ一方的に日本の侵略を主張できるのだ。一方では800年前を歴史を主張し、一方では60年前の歴史しか認めない。この詭弁を何とする。
中国と韓国の真意
この何年来か、日本を貶める中韓国の言説や行為にしばしば憤慨させられた。これら理不尽な嫌がらせを止めさせることはできないものか。かねてからもどかしく思っていたが、最近になってやっと対策のヒントを得ることができた。以下の3冊がそれに該当する。第1は東アジア反日トライアングル(古田博司)、第2は内なる敵をのりこえて、戦う日本へ(荒木和博)、第3は中国が世界をメチャクチャにする(鳥居民)、である。かねがね私が漠然と考えていた問題の輪郭が、これらによって明確になった。類書は数え切れないほどあるが、これほど明快に本質を衝いた論説を見たことがない。大きな収穫であった。
2007年7月16日月曜日
マスコミの偏向と捏造
朝日や毎日などの左翼偏向マスコミは、自分の主義を通すために平気で捏造記事を書く。自分たちを啓蒙者と考える傲慢さと、金儲け隠そうとする偽善とが表裏一体となっている。たとえば朝日のさんご礁への落書き事件。テレビ朝日の椿事件。これはウイクペディアにもある有名事件だ。最初に告発したのは産経の1993年10月13日の記事だ。また毎日は事実でない百人切り事件や、沖縄島民への集団自決強要事件の報道を訂正していない。これについては大江健三郎も「沖縄ノート」で記事を書いたが謝罪していない。
日本の外交はなぜ格下か
日本は中国との外交で、いつも格下のように扱われてきた。それはチャイナスクールと称する外交官僚一派が、不甲斐なかったからだ。しかしモノヅクリなど技術の面では、日本は明らかに格が上だ。
一方国内ではどうか。外交官僚は文系の代表的なエリートとして評価され、処遇されている。それに対してモノヅクリに携わる技術者や作業者は軽く扱われている。この捩れ現象はどこからくるのか。まさしく明治時代の西欧文化に対する劣等感が尾を引いている。例外を除き日本の文系学者には殆どオリジナリティがない。翻訳ないし翻案したものを恰も自分の作品のように発表してきた。この傾向はとくに政治学、経済学、経営学などの社会科学系で強くみられる。したがってこの分野の人間にとって最も大事なスキルは翻訳とくに英語能力であって、オリジナリティではない。日本の外交官僚は、その代表といえるだろう。事務処理能力は高いかもしれないが、戦略能力を期待することはできない。強かな中国外交に遅れをとるのは当然だ。
一方国内ではどうか。外交官僚は文系の代表的なエリートとして評価され、処遇されている。それに対してモノヅクリに携わる技術者や作業者は軽く扱われている。この捩れ現象はどこからくるのか。まさしく明治時代の西欧文化に対する劣等感が尾を引いている。例外を除き日本の文系学者には殆どオリジナリティがない。翻訳ないし翻案したものを恰も自分の作品のように発表してきた。この傾向はとくに政治学、経済学、経営学などの社会科学系で強くみられる。したがってこの分野の人間にとって最も大事なスキルは翻訳とくに英語能力であって、オリジナリティではない。日本の外交官僚は、その代表といえるだろう。事務処理能力は高いかもしれないが、戦略能力を期待することはできない。強かな中国外交に遅れをとるのは当然だ。
2007年7月15日日曜日
ビジネスは何によって成り立つか
ビジネスが成立する根拠については諸説がある。建前論では人類に幸福をもたらすためというだろう。しかし本音ではどうだろう。私の考えでは、ビジネスは聖人君子の考えに基づくのではなく、俗物のニーズから始まる。すなわち俗物性の容認である。容認というのはありのままを認めるということだ、そこには価値観や偏見は介入しない方がよい。俗物のニーズは、多分奇麗事ではないだろう。その結果、当然ながら違法問題と直面することになろう。エログロ、ナンセンス、ギャンブルなどはその最たるものだ。したがってその限界線を引くことが不可欠になる。逆に言えば違法でさえなければ何をしてもよいことになる。社会の木鐸を自認する大新聞でさえ、ひと皮剥くとひどいものだ。もちろんビジネスマンの中には倫理観の強いものの数は少なくない。しかし、そうでないものも数多い。かくしてビジネスは「俗物性」の容認が出発点になる。
時間生産性と期間生産性
田口玄一氏のタグチメソッドによって、従来の品質管理ではカバーできなかった問題が解決できる。ロバスト性という概念を取り入れているからだ。その適用対象は製造現場ではなく、設計開発部門である。一方、生産管理については、私は従来型の時間生産性とは違う期間生産性概念を主張している。時間生産性は単位作業に要する時間の短縮がテーマだが、期間生産性は違う。特定の工程における仕掛品の滞留時間を問題にする。つまり時間生産性と期間生産性はイコールではない。しかしまだこの考え方は十分には浸透していない。タグチメッソドのようになっていないのは残念だ。そのくせSCMは近年の最大のテーマだ。スローガンや事例は無数にある。しかし肝心の期間生産性という概念に触れる論議はまったく行われていない。
2007年7月14日土曜日
M&Aブームは経営学を破綻させる
新日鉄は世界最大の製鉄会社ミッタルからの、敵対的買収の脅威に晒された。ミッタルはフランスの製鉄会社アルセロールを、強引に買収して世界一になった。それが出来たのは、投機ファンドの資金によって株式の過半数取得に成功したからだ。それと同じやり方を新日鉄にも適用しようとしたのだ。まさに会社は株主のものという考えの極端な事例だ。今や企業の経営は、経営学が提唱してきた優れた経営理念・顧客のためによい製品やサービスを安くタイミングよく提供する・・・・・だけでは通用しなくなっている。牧歌的な経営理論そのものが土台から崩れ始め、資本の論理による弱肉強食が横行するようになった。その兆しは国内でも見受けられる。ホリエモン事件は好例だ。その他アサヒペンタックス、北越製紙、阪神電鉄などいくつも見られる。これからの経営は、奇麗事だけでは済まなくなった。まさに戦国時代というべきだろう。したがってトップには、本当の意味の戦略が求められるようになるだろう。資本、プロダクト、プロセス、顧客、株主、ライバル、社員、政府との関係、国際関係など極めて広範な項目に対応すべきだ。豪奢な役員室でふんぞり返っているだけでは済まなくなった。よきに計らえではなく、困難極まりない意思決定が求められる。真の意味で真価が問われるようになったのだ。
Web2.0は巨大な集団天才
茂木健一郎と梅田望夫の共著「フューチャリスト宣言」で、ウェブ頭脳論が語られている。脳の働きは脳細胞のネットワークで機能するが、個々の人間を一つの脳細胞に擬すると、その集合体であるインターネットウエブは、まさに巨大な脳である。その特徴の一つは、どちらも偶有性(29頁)を持っていることだという。さらに面白いのは、そのウエブの性格は国によっても相違するという。アメリカの場合は個人がリンゴのように個々が確立している。そのため集団天才になりにくかったが、Web2.0(新インターネットネットワーク)のお陰で、巨大な集団天才化が可能になった。一方日本の場合の集団天才は葡萄の房だ。個々が確立していない。全体が個を形成している。従来はそれが強みであったが、今後はどうかというのだ。一房ごとは強いが、他の房とは断絶している。だから小規模な閉鎖社会を形成してしまう。これでは規模の大きい集団天才にはなれない。然らば対策はどうか。私の意見は葡萄の一房を単位としながらも、Web2.0によって、日本独自の巨大なネット頭脳を構築することだ。
(注)集団天才=文殊の知恵というように、平凡人の集団でも夫々の知識をうまく組織化すれば天才を凌駕できる。
(注)集団天才=文殊の知恵というように、平凡人の集団でも夫々の知識をうまく組織化すれば天才を凌駕できる。
イカロスの墜落
ブリューゲルが描いたイカロスの墜落は不思議な作品だ。題名になっているイカロスの墜落場面そのものは、画面の片隅に小さく描かれている。うっかりすると見逃すほどである。その傍らには一人の農夫が何事もなかったように作業を続けている。この大事件にも全く関心を示していない。ブリューゲルの意図は分からないが、私は彼の人間の卑小さに対する痛烈な皮肉のように思われる。世間にどのような大事件があろうとも、大衆の殆どは当面の自分の生活しか考えない。われ関せずである。その無知とエゴと逞しさには脱帽するしかない。大衆のこの真実は彼が生きた中世どころか、21世紀の現在も全く変わらない。ブリューゲルはそれを見通していたのだろうか。
2007年7月13日金曜日
面白い夢
最近、ちょっと面白い夢を見た。わが国にも秘密警察ができて、ひそかに活動を開始した。手始めは反日的な言論をほしいままにする似非インテリへの懲罰だ。とくに目立つメンバー数名を選び、その背後からロシアから輸入した毒薬注射器で、注射する。崩れ落ちる衝撃的な場面がテレビで放映された。そして匿名の犯行声明。これを見てまずおとなしくなったのは、高級紙を自認する新聞の論説氏だ。そしてスター気取りの評論家だ。かくして日本のマスコミ界の論調は一変した。その中で頑固に信念を曲げないマスコミ人は、数えるほどしかいなくなった。なんと卑怯で臆病なことか。安全圏内であればいいたい放題だが、少しでも危険が伴えばたちまち沈黙し、時には変節する。これが反日をモットーにする似非インテリの正体だ。ということを見極めたとき、目が覚めた。ところが、これが正夢になる事件が起きた。毎日の大平記者による記事横流し騒動だ。その顛末を以下に述べる。①06年1月12日、毎日の大平記者が南青山の土地取引疑惑を報道した ②2月14日、糸川議員が議会でこの取引について質問 ③3月3日、糸川議員が関係者から脅迫をうける ④4月5日、大平記者は脅迫を受けた糸川議員を取材 ⑤その後、6月22日までの役80日間、毎日は全く報道しない ⑥6月22日、やっと毎日は糸川脅迫事件を報道した。 さて約80日も報道しなかったのは何故か。それどころか、この空白期間に大平記者は糸川議員からの取材記録を誰かに横流しした。ここまでは事実である。後は私の推定。たぶん大平記者は誰かの脅迫に負けて報道を止めたのだ。しかも取材記録をもらしたのだ。そして一連の事実がバレたので、6月22日なってしぶしぶ脅迫事件を報道したのだ。初夢で見たマスコミ人の臆病ぶりは正しかったらしい。
2007年7月12日木曜日
回転率主義の反省
かつて鈴木博文氏がセブンイレブンで導入した単品把握手法はマーケティングに革命をもたらした。革新的なバーコードシステムのテクノロジーもあって、売れ行き商品データの即時把握が可能になり、正確無比な品揃えができるようになった。情報は生産者などの供給側に即時に提示され、スピーディな対応を促すようになった。その影響は生産、供給、製品開発などすべての分野に及んだ。この動向はマーケティングのあり方を一変させた。陳列された商品は、わずか1~2週間で命運が決まる。ただし、このスピードはプラスだけではなく、マイナスももたらした。たとえば書籍のように、本来はその評価に時間をかけるべきものも短期間で評価させられる。このため商品は、すべて短期間で認められるように工夫が凝らされる。目に付くような派手な表題とか装丁などはその例である。しかし最近ではこの極端な回転率主義にも陰りが見受けられる。あたらしいアプローチが求められている。
反日キャンペーンの裏側
嘗て中国系アメリカ人のアイリス・チャンが書いた「レイプオブ南京」や、最近の映画「南京大虐殺」など、アメリカでは一定のサイクルで大規模な反日キャンペーンが行われる。これらを見ると、アメリカの反日勢力はかなり強大であるように錯覚させられる。しかし騒いでいるのは本流の白人ではなく、中国系のアメリカ人である。つまり実態は中国本土の意向と連動した宣伝活動である。そもそも中国系のアメリカ人は半端な数ではない。700万人もいる。これは明らかに政治勢力である。アメリカのマスコミでは、時々驚くような反日キャンペーンが打たれるが、その裏側には多分彼らが策動しているのだ。
2007年7月11日水曜日
ルール違反やマナー無視にどう対処するか
心ない人のルール違反やとマナーのない行為には耐え難い想いがする。しかしそれを一々気にしていたらとても身が持たない。平然と受け流すに限るが、それにはコツが必要だ。たとえば確率論で考えることだ。ある不快な行為で迷惑したとき、それをやる人は何パーセントかと考える。1万分の1や1000分の1と見積もれば、地震や洪水などの自然現象のように、避けられない例外と考える。100分の1ならマスコミなどの世論に訴える。10分の1と見積もれば、相手に不快であることを伝える。先日、食堂で食事していたら年配の婦人から「ぐずぐずしないで早く終わらせなさい」と言われた。一瞬むっとしたが、このような人物は100分の1にも満たない例外だろう。だから反論せず無視することにした。では電車の中でお化粧する人を見たらどうか。その比率は何パーセントぐらいだろうか。
大新聞の矛盾
日本の大新聞のモットーは反権力と啓蒙である。しかし反権力についていえば、現代社会ではマスコミこそ権力の頂点にある。たとえば再販防止法の適用除外を勝ち取っている。なぜマスコミだけが独占禁止法の適用からまぬかれるのか。それは社会の公器という大義名分を振りかざすからだ。当然それには反論もある。しかしマスコミは業界を結集して自らの正当性をキャンペーンするので、どうにもならない。まさに法の上にある権力だ。そのくせ、国家政府に対しては、ことあるごとに権力の濫用を攻撃する。法の下における平等を主張する。この矛盾はどこから来るのか。もはやマスコミの主張は矛盾ではなく、特権意識に基づく特権階級としての主張ではないか。なお、マスコミ内部には、別の意味での矛盾もある。それは経営者と従業員との間の軋轢だ。端的に言えば下克上の関係だ。たとえば朝日とNHKの争いだ。どちらの会社でも経営者は、左傾した従業員の暴走に手を焼いているが、それを押さえることができない。
石原知事の複式簿記論
石原知事は国や地方自治体の財務管理を単式簿記から複式簿記に変えるべきと主張し、実行に移した。まさに卓見である。そもそも単式簿記は現金の出入りしかきろくできない大福帳である。これを複雑な財政運営に使うのは間違っている。長年にわたり財政学者はそれを指摘しなかったが、見識を疑わざるを得ない。もちろんこの方式では、国の財産も正確には管理できない。とくに資産の把握ができない。単年度に限った予算であれば、これでも何とか処理できる。しかし長期的な財政戦略が必要な昨今、単年度主義そのものが問題になっている。しかしそれを改めようとしても、単式簿記では処理できないだろう。複式簿記であれば、当然ながら貸借対照表に産と負債が表示される。しかし単式簿記で運営されている現状ではそれができない。すなわち日本の国家財産は貸借対照表で記録されていないので真実の姿が不明なのだ。たとえば減価償却という概念を導入できない。そのため長期間使用する固定資産であっても、すべて1年限りの経費になってしまう。したがって膨大な固定資産があっても、それを正確に把握できない。近年、国債などの国の借金だけが問題になっているが、複式簿記であれば借方欄に資産が計上されているはずだ。その資産金額と借金の対比で、本当の赤字がわかる。今はそれができないのだ。健全財政論は単年度だけで議論しても意味がない。
2007年7月10日火曜日
日本のビジネス流儀は変わったか
2007年の春から秋にかけて、4年ぶりにコンサルティングをやった。そこで感じたこと。第1は、私の専門分野(生産管理)では殆ど進歩がみられない。いまだにMRPが幅を利かせている。同じことは会計学や戦略論、マーケティングでも見られる。つまり経営学の理論分野では未だにアメリカ追随から脱していない。おそらく実務経験のない日本の経営学者としては、翻訳の権威に頼るしかないのだろう。第2の感想は、ビジネスツールやリテラシーが大きく変わったことだ。パソコン、インターネット、モバイルなどのスキルなしではやっていけない。旧世代のホワイトカラーが復帰したら目を白黒するだろう。ただし製造現場の熟練技術はまったく影響を受けない。第3の感想は、コミュニケーションスタイルが変わったことだ。簡単にいえば、従来の情緒型から論理型になった。これについては、生々しい体験がある。オークションでプリンターインクを入手したときのトラブルだ。私の勘違いで10円少なく支払った。その際の相手の文句の言い方は凄まじかった。しかしもとを正せば、相手の説明に誤解をまねく要素があった。その点を鋭く衝いた。これに対しては、相手の反応は驚くほど素直で、結局は謝罪した。つまり異常なほど論理にこだわるということだ。情緒型は日本独特で、論理型は世界共通だというが、日本の若い世代が担うビジネスにはすでにその傾向が見受けられる。
デザインの基本は関係付け
断片的な知識はいくらあっても、そのままでは何の意味もない。これらの断片を目的と関係付たとき、はじめて生かすことができる。これは創造思考の本質でもある。ただし一般的には関連付けといえば、論理的な側面だけで捉えられている。そして論理的な関連付けは、殆ど言語だけに頼っている。しかしそれは誤りだ。非言語的な感性によっても関連付けを行うことができる。その典型が絵画だ。論理思考で描くときは、対象と空間の関連は、いわゆるL字空間すなわち物理学の空間である。しかし絵画での関連付けはそれにとどまらない。たとえばトランペットと指揮者を描く例を考えよう。論理型では両者の配置はL字空間すなわち物理法則にしたがって描かれる。しかしトランペットと指揮者の間に暗闇を配置したり、水の流れを描くこともできる。この場合のトランペットと指揮者の関係づけはL字空間すなわち論理ではなく、感性による関係づけである。絵画では、それが可能なのだ。それどころではない。戦略計画や、新発見のアイデアでもこのような論理に拘束されない関係付けが行われる。デザインの分野では、このような論理だけではない感性すべてを含めた関連付けが、極く普通に行われている。
政治能力とは何か
中国人の政治力は傑出している。そのため日本は外交において、翻弄されている。このような日本人が得意でない政治力とはどういうものか。政治力を構成する要素を挙げたら狡猾さ、詭弁を操る言語能力、先見力、戦略力、冷徹な判断力、煽動力、リーダーシップなど際限がない。技術や、語学などのように学校で教えることはできまい。したがって学歴とは関係ない。この不思議な才能は生来のものか。そして、それを磨くにはどのような環境と経験と訓練が必要か。少なくとも我々が考える一般教養とは全く別もののようだ。あえてヒントを求めるならば、マキャベリーズの思想ではないか。ただ、このような才能が邪悪な目的で使われ、常識や道徳を失するかたちで一人歩きした場合、どういう弊害が生じるだろうか。権謀術策の国・中国の将来について大いに関心が持たされる。
2007年7月8日日曜日
シリコンバレーの日本人
シリコンバレーには世界中から野心家が集まり、数々の成功物語を作り出す。中でもインド系と中国系は元気だ。その中で目立つのは、日本人の元気がないことだ。そもそもシリコンバレーのスポンサーは、多くの場合日本の大企業だ。それをしっかり利用すればよいはずだ。しかし、それにもあまり積極的でない。この地で仕事をしてきた長岡泰彦氏によると、日本があまりに恵まれた国だからという。皮肉ではく、真実そうだという。失敗しても帰国できるし、再び仕事も出来る。このようなアドバンテイジがあるのに、元気がないのはなぜだろう。日本人の美徳である慎み深さは、シリコンバレーでは通用しないのか。
日本型経営は逆風時に
昨年、中国に進出している日本企業から依頼されて、コンサルティングを行った。提案は受け入れられなかったが、この失敗は中国で事業展開をやる上での、大きな教訓になるだろう。私の提案を受け入れなかったのは、形式的には日本の経営トップであったが、実際は現地の実質的な責任者である中国人工場長である。確かに彼の上には日本人の総経理がいる。しかし工場長が難色を示せば、何事も強行できないだろう。この工場の労使関係はとても円滑で、友好経営の模範とされている。しかし、その実はこの工場長の言いなりになっているのではないか。だからといって彼は腹黒い人間ではない。むしろ性格は真面目というべきだろう。ただし自分ができることしかやらない。したがって日本本社は、思い切った革新を強要できないのだ。相互理解を尊重する、日本型経営の限界というべきだろう。しかし欧米企業の経営は違う。彼らの経営スタイルは゛統治型”だ。したがって相互理解といった悠長なことは考えない。この厳しさの故に、多少の摩擦はあっても経営を骨抜きにされることはない。日本の方式は、経営が順調なときはよいが、変革が必要な危機には対応しにくい。中国に進出した日本企業の、お人よし経営が危ぶまれる。
2007年7月5日木曜日
完璧主義は日本人の特徴か
モノヅクリで発揮される日本の技術は傑出している。世界で重宝される高品質、高精度を誇る製品を思い浮かべるときりがない。これは古来から職人や匠の技として引き継がれてきたものだ。その源泉は求道的な完璧主義である。しかしこの完璧守備にも落とし穴がある。とくに文系の人間がこれに陥ると、どうしょうもない袋小路に入りこんでしまう。官僚で言えば瑣末な条文主義になる。マスコミも減点主義に終始する。たとえば失業率5%を問題にする。しかし西欧では10%が普通だ。途上国に至っては論外だ。また格差を問題にする。しかし日本ほど格差のない国は少ない。いったい何を基準にして問題にするのか。おそらく0を目指せというのだろう。完璧主義の典型的な弊害である。ただし同じ完璧主義といっても、技術系のそれにはリアリズム(現場主義)が背景にある。しかし文系の場合は、感覚的かつ情緒的なので度し難い。
地方政治の堕落
政治の地方分権化という大きな流れの中で、岐阜、和歌山、福島などで知事汚職事件が相次いだ。宮崎も例外ではなかった。そしてあのお騒がせマンの東国原が立候補し、当選した。迂闊にも私は、彼もまた前の横山大阪知事と同類の人物とみなしていた。しかし間違っていたようだ。宮崎の知人の話を聞き、自分の認識不足を思い知った。一部の利権亡者は別として、宮崎県民の多くは従来型の県政のあり方にうんざりしていたのだ。私の勝手な見解では、従来型の県政は4つの利権グループに牛耳られている。すなわち、①知事を頂点にして行政を担当する地方高級官僚、②政治を家業にしている県議員、③行政の現場実務を担当する職員組合(教職員も含まれる)、④そして道路や砂防工事に携わる建設業者だ。実はもう一つ、県政に関係ないはずなのに深く関与している一部の国会議員。彼らには国から補助金をせしめるという大きな役割がある。この4つないし5つのグループが県政を堕落させてきた。それぞれのグループを結びつけるのは、一にかかって金銭的な利権だ。たとえば職員組合。彼らは自治労に属するので、本来は左翼系だ。しかし知事選挙では保革に関係なく、現職知事を支持する。なぜか。給与などの利権交渉を有利にしたいからだ。そのため宮崎県の一般就業者の平均給料より30%以上の高給を貰っている。その職員の多くは県議員などの有力者の縁故で就職している。今回の東国原知事の誕生は、おとなしい宮崎県民の積年の不満がついに爆発したのだと思う。まさに快挙というべきだろう。それにしても憂うべきは堕落した地方の政治勢力だ。それは単に家業化した政治屋だけでなく、それを含む5つのグループだ。しかし人数にしたら一部に過ぎない。それにも拘わらず大多数の善良でおとなしい県民は、この連中にコケにされてきた。大いに奮起すべきだと思う。
2007年7月3日火曜日
マンションのコミュニティ
最近になって私が住むマンションでは、コミュニティの意識が高まってきた。新築入居22年目のことである。当初は住民同士がエレベーターで出会っても目礼さえしなかった。それもそのはずで、多くの人はわずらわしい近所付き合いから脱却するためにマンション生活を選んだからだ。今になって風向きが変わったのはなぜか。簡単にいえば、本来の人間の生活本能を取り戻したのだ。なぜか。22年の間に老人から幼児までの各世代が、満遍なく分布するようになったからだ。言い換えれば人生のフルコースが揃った。かくして本来の人間性に基づくコミュニティが生まれたのだ。入居時はそうでなかった。働き盛りの壮年者だけで、それこそミニ団塊を形成していたのだ。私はかねてから現代都市生活を代表するマンションで新しいコミュニティスタイルが発生するはずと考えていた。しかし何のことはない。日本のどこでも見られた伝統的なコミュニティのパターンが再現されたに過ぎないのだ。この半世紀において、日本は農村から都市へ一種の民族大移動が起きた。それによって農村のコミュニティは衰退し、一方の都市ではコミュニティが形成されるに必要な熟成時間が足りなかった。そして今、ようやく必要条件である世代のフルコース化が生じつつあるのだ。もちろん嘗ての農村に比べれば、その成熟度は低い。何しろ歴史が違う。片方は数百年で、マンションは2~30年だ。しかし農村のコミュイティは自然発生だが、マンションのそれは意図的だ。このてんがコミュニティ形成の速度と内容を大きく変えるだろう。
反日日本人の言う通りにしたらどうか
いわゆるサヨクや反日日本人の主張や、彼らが心の母国と考えている中国や北鮮の言い分を全部受け入れて、新しい国づくりをやったらどうなるか、シミュレーションしたらどうだろう。たとえば北鮮の賠償要求3兆円を全部払う。原子力発電を全廃する。慰安婦問題を中国や韓国の言うとおりに聞き入れて慰謝料を払う。軍事力を全廃する。尖閣諸島や竹島の領有権を中韓国に譲る。日本が主張する領海権を撤回する。在日の権利主張を全部受け入れる。100万人殺したという南京事件を全面的に認める。膨大な遺棄毒ガスの修復を全部認める。そのほか彼らが主張する全ての項目をリストアップして、それを受け入れるのだ。そうした後、日本に残された資産を基にして、何年かけていかなる国を構築するのか。どこかの左翼系シンクタンクか左翼系論客に委託して、やってもらいたい。もちろんそうなったときの国民生活の予想もやるのだ。たとえばサヨクが問題にする失業率、老人保健のレベル、平和国家としての独立性など全てだ。これはグッドアイデアと思う。個々の言いがかりに一々反論していては、彼らが目指しているものの全体がつかめない。上記のようにアプローチしたら、彼らの矛盾あるいは真に目指しているものが鮮明になるはずだ。多分それは、日本の滅亡そのものだと思うが・・・・・。
格差社会の議論
マスコミが騒ぎ立てる問題提起にはいい加減なものが多い。格差問題もその一つだ。そもそも、これはサヨク学者が言い出したことだが、それをマスコミがあじり、日本中がそれに乗ってしまった。その代表が民主党首の小沢氏だ。国会での代表質問の際、日本社会の格差は世界一とやってしまった。さすがに恥ずかしくなったのか、その後は表現を変えている。最近のデータではアメリカのホームレスは75万人という。それに対して日本は2万5千人だ。実に30分の1だ。また貧富の差を表す指標としてジニ係数が使われるが、それによると日本は0.38だ。中国の場合は0.49である。この指数が0のときは所得格差は全くないことになる。そして1に近づくほど格差ありということになる。一般に0.5が危険水域になる。したがって中国社会の格差は限界に来ているということだ。そのほかロシヤ、アラブ、インド(たとえばカースト制)東南アジアなど世界中を眺めたらどうだろう。日本はむしろ格差のない国というべきだ。政治家やサヨクはもっと勉強しなければならない。
2007年7月2日月曜日
社会科学系エリートの時代は終わった
日本の心ある人たちは、嘗てアメリカが提案してきた「日米構造協議」と「年次改革要望書」は、致命的なダメージを与えるものと直感した。関岡英之が著した「拒否できない日本」は、まさにそのアメリカの戦略的な意図を解明した労作である。日本は太平洋戦争で、アメリカに完膚ないほど痛みつけられた。それにも拘わらず不死鳥のように蘇った。特に経済面ではアメリカを脅かすほどになった。誇り高きアメリカはそれを許せない。クリントンのごときは、経済もまた戦争と捉え、本格的に対日戦略を考えるようになった。しかしいくら叩いても日本は強い。アメリカは日本の強さを徹底的に分析した。そして遂に日本の強さの本質を発見した。一言でいうとそれは文化である。かくしてアメリカは日本の文化そのものを破壊する決心をする。日米構造協議や年次改革要望書の内容は、まさにそのための具体的なプログラムであった。この話は、私が考えるテーマ「日本は文明に弱く、文化に強い」と共通する部分がある。このようなアメリカの戦略に気付かないのが、エリートとされる文系学者や官僚、バンカー、マスコミ人である。彼等の多くは社会科学系に属する。その特徴は欧米で開発された学説を直輸入する点にある。単なる翻訳で、独創性は全くない。それが日本をミスリードした原因である。その一方で、リアルにものを考える理科系人間や、実務人間は、翻訳文明とは全く別に日本の文化を支えてきた。これからはその底力を発揮するだろう。
極左と極右の共通点
日本ではマルキシズムなどの左翼革新主義は、今では時代遅れになっている。それに代わり保守主義の勢いが強い。しかし保守主義といっても、一枚岩ではない。たとえば西部遷氏など、小泉前首相の実績を保守主義から逸脱したと批判する。アメリカに肩入れしすぎたというのだ。彼のような純粋保守主義者と、極左主義者には一種の共通点がある。つまり原理主義ということだ。原理については決して妥協を許さない。「原理」を書いた柄谷行人などはその代表だ。しかし現実の社会は、純粋な理論で動いてはいない。そもそも現実の社会を抽象化した理論で理解しようというのがおかしい。塩野七生はマキャベリーを高く評価しているが、その最大の理由は彼がリアリストであるからだ。原理主義者には理念があっても、現実がない。つまり空理空論だ。それに比べて、小泉前首相はきわめて現実的な政治家だった。
2007年7月1日日曜日
信念ある政治家の台頭
2~3年前、岡本行夫が主催する新現役ネットの、「教育を考える」という部会に参加した。日教組が牛耳る教育の現状に危機感を感じたからだ。メンバーの大半は真面目な人達で、いつも真剣に議論をやっていた。しかししばらくして、全員が無力感で悩まされることになった。こんな議論を重ねても、社会に何の影響も与えることができない。要するに犬の遠吠えだし、お互いに傷を舐めあうだけではないかと。やがて一人去り二人去り、この部会は消滅した。しかし安部さんが首相になって以来、教育問題はこの政権の基本的なテーマとなって、精力的に取り組まれている。まことに喜ばしいことだ。私は今更ながら政治の力を見直している。進歩的とされるマスコミや評論家の政治論は、相変わらず枝葉末節な揚げ足取りか、偏った固定概念に留まって矮小である。しかし小泉旋風以来、心ある政治家は右顧左眄することなく、信念を明確に表白するようになった。大いに慶賀したい。
新聞のダブルスタンダード
日本の大手新聞社がダブルスタンダードを許されるのは如何なる根拠によるのか。河内孝氏の著作「新聞社」で明らかなように、販売現場のあくどさや独禁法に抵触する行為は今や歴然としている。それにもかかわらず紙面では正義の騎士気取りで、自分の国の政治や外交、さらには歴史にまで批判の矢を放て糾弾しつづける。要するに経営と記事は別物というわけだ。しかし、たとえば産業界で不祥事があった場合、新聞の追求はその責任部門だけに止まるだろうか。社長の退任や倒産にまで追い詰めてきた。その論法でいけば、新聞販売の不祥事は会社全体に及ぶべきである。編集と営業は別といった逃避は出来ないはずだ。
下克上経営の時代は終わる
NHKと朝日新聞の争いは決着がつかないままで終わった。とくに朝日は、ピンチを何とか切り抜けたので、ほっとしているだろう。しかしどちらも内部管理の観点で見ると、大きな問題をはらんだままだ。すなわち下克上の経営が行われているのだ。NHKにしろ朝日にしろ、問題の発端は現場が経営陣の意向に背いたことにある。なぜそういうことが起きるか。それは経営陣と現場サイドが一体になっていないからだ。例の朝日の記者にしろ、NHKの長井プロデューサーにしろ、この世代のマスコミ人には全共闘くずれの反日日本人が多い。それが今では現場の中堅メンバーになっている。一方経営サイドは、信念のない能吏型が多い。つまり体を張って経営をやるという気迫にかける。かくして今回のような事件がおきるのだ。このような下克上型の経営の例は多い。かつての国鉄や日産自動車、現在の日本航空などいくつも挙げられる。経営トップ層に信念がなく、現場が破壊的な反日日本人に牛耳られている企業では、必ずこのような下克上ともいうべき事態になる。しかも従来は概ね現場側が勝利していた。経営者が負けるのは事業自得だが、問題は顧客に迷惑を及ぼすことだ。最近になって、ようやく改善の気配が見える。経営者には外資ファンドの脅威が迫っているし、現場に対しては反日日本人への批判ムードが高まってきたからだ
罷り通る論点のすり替え
社会保険庁のミスによって年金記録紛失事件が起きた。野党はこれを政争の具として利用し、政府を追及している。マスコミもセンセイショナルに取り上げたので、国民は政府不信に傾き始めた。せっかく浸透しつつあった安部首相による「美しい国づくり」運動も危うくなっている。たとえばテレビ局の取材に応じたある主婦は「美しい国なんて叫んでいないで、足元をしっかりやるべきだ」と答えていた。全く見当はずれの意見だが、大方はたぶん納得しただろう。その誤りを一言で指摘するフレーズはないのか。じっくり時間をかけたら説明することは出来る。片方は国の理念の問題だし、片方は事務当局のミスに過ぎない。これを同列に論じるのは、全くナンセンスだ。しかし、そう述べた婦人は正しいと信じているし、周囲はその言葉に同感する。尊敬の念さえ持つ。政治とは、このような馬鹿馬鹿しさの上に成り立っているのか
情報・知識の環境は一変した
この30年来、心ある知識人は専門分化が著しい現代文明の状況を眺めて、誰も全貌を理解し得ない時代が来たと慨嘆した。専門が専門を生み、その細分化は止まることがない。そのため隣接する部門であっても、たちまち他国に踏み込んだように理解できないくなっていた。もはやゼネラリストは存在しないのか。だとすれば知識全体のバランスは誰が、どうやって図るのか。まさにカオスの時代が到来したと嘆いた。その頃から私も同じ問題意識で悩まされていた。しかし21世紀のはじめ、遂に人類は新しい知識環境への到達を実感するにいたった。ウエブツーワールド時代の到来だ。従来のツリー型知識の構造は、人間がつくったもので絶対のものではない。それが今日までの進化による情報集積の結果、ついにカバーしきれなくなったのだ。しかし人間は、この閉塞を打ち破るテクノロジーを開発した。ウエブ2.0である。これによって地球全体の情報が瞬時に検索できるようになった。そして個人の頭脳が、地球全体の頭脳とリンクしたのだ。その波及効果は大きい。たとえば大学は知識情報のメッカとしての存在の意味を失っている。
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会社は誰のものか
城山三郎が亡くなった。彼のデビュー作となった「総会屋錦城」を、共感をもって読んだことを思い出す。その後私は経営コンサルタントという職業についたが、経営者の実態を見るにつけ会社は誰のものかという疑問を持ち始めた。とくに不快だったのは経営者による企業の私物化であった。彼らの思い上がりを抑止するには、錦城のような総会屋は必要悪とさえ考えた。法的に言えば答えは簡単で、会社は株主のものだ。しかし当時は株式所有の大衆化によって、個人株主はその自覚がなかった。大株主として陰の実権を握っていたのは資金を貸している銀行と、株式の持ち合い関係にある企業だった。その後ろ楯によって経営を委託された番頭に過ぎない経営者(特に社長)は権力をほしいままにした。大株主とは合い見たがいの関係だったので、よほどの失態がない限り干渉を受けることはなかったからだ。トップ交代は禅譲か役員会内部のクーデターに限られた。関電事件や三越事件、松阪屋はその代表例だ。私見では会社は株主、従業員、経営者の三者のものと考える。川俣社長時代の日産は組合との馴れ合い経営で有名だ。この場合は、コケにされたのは三者のうちの零細株主だけということになる。このような奇妙な日本的経営の権力構造は、最近になって覆された。そして株主の権力が圧倒的に強まった。原因は株式相互持合いの禁止、銀行の貸し出し率の低下などだ。一方で機関投資家の台頭により株主の権力は肥大化した。形式論的にいえば正常な姿だ。しかし実際には不具合が多い。株主の多くは目先の値上がりだけを期待するので、経営者に短期利益の追求だけを求める。企業や事業の長期的な発展には関心がない。マックスウエーバーが論じた資本家の精神などは全く期待できない。ここでもまた、大きな弊害が生じている。
中国の深慮遠謀
中国人の発言を額面どおりに信じることはできない。それは個人レベルでも国レベルでも同じだ。彼らは腹に一物あっても、それを直接的には表現しないで間接的に表現する。だからその真意を注意深く読み取らなければならない。先日NHKで2日にわたり放映された特集番組「激流中国」も、そのつもりで読み解く必要がある。1日目は「格差社会の壁」で、2日目は「雑誌編集部」であったが、どちらも本来なら外国のテレビに取材されたくないはずのテーマだ。それを何故許したのか。まず「格差社会の壁」については次のように読み取ることが出来る。中国における経済勝者と敗者の差は、今では内外周知のことだ。隠せないので取材を許した。政府はむしろそれをあからさまにする事で、困難な和諧社会実現の正当化をアピールしようとしている。多分これからは腐敗官僚や不徳商人の粛清を始めるだろう。次の「雑誌編集部」は、マスコミの取材に対する妨害の実態を映したものだ。これもよく知られていることだから、今更隠しても無駄だ。そこでいっそのこと取材を認めた。では真の狙いは何か。それは言いなりにならない地方政権を押さえ込むことである。中央政府は地方政府のコントロールに手を焼いてきたが、今や決着をつけるべきときがきたと判断した。今回の番組では、自由な報道を妨害するのは地方政権だという印象を与えることが出来た。つまり報道の不自由を取材させる名目で、悪いのは地方政権というアピールをしたのだ。今後は地方政権に対する締め付けが積極的になるだろう。それをやりやすくするための前準備だったのだ。
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